酒津村
さけのつむら
[現在地名]気高町酒津
現気高町域の北東部、西側を河内川、東側を水尻谷に挟まれた尾根が日本海に突き出た所に位置する。集落は尾根北端の日本海が小さく湾入した地にある。南西は新町村、東は奥沢見村のうち水尻。古くは樽谷と称していたが、鹿野城(現鹿野町)城主亀井茲矩統治の時代、樽の縁によって酒をあて、海辺に谷とは似つかわしくないとして酒津と改名したと伝える(因幡志)。土地が狭く、家屋は山腹を切開いて階段状に密集し(同書)、畑地が少しあるばかりで田地はなく、村民のほとんどが漁業で生計を立て、ほかは職人・商人であった(勝見名跡誌)。正保期(一六四四―四八)作成と推定される因幡国絵図(県立博物館蔵)では母木宿(村)の内として村名がみえる。正保郷帳では母木村と並記されていたが、元禄国絵図・元禄郷帳作成の際母木村の内と改められた(元禄一四年「変地其外相改目録」同館蔵)、享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」では一村として扱われている。
酒津村
さかづむら
[現在地名]倉敷市酒津
水江村の北に位置し、村中央を東高梁川が南流する。八幡山の北西端で高梁川の水流が東西に二分されていた。北の黒田村との境にある青江山は河岸まで迫り、その絶壁を通る細い岩道は交通の難所として恐れられる一方、東高梁川の水流を直下に、八幡山を川向うに見る名勝「鑵子のつる」であった。かつて高梁川の河口は東西への分流点辺りにあり、当村は阿知潟に臨む海港であったと思われる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 