重富村(読み)しげとみむら

日本歴史地名大系 「重富村」の解説

重富村
しげとみむら

[現在地名]熊本市画図えず町重富

東は所島ところじま村、西と北は田井島たいのしま村である。貞応三年(一二二四)五月二一日の関東下文案(詫摩文書)に、神蔵かみくら庄内として「重富」とみえ、大友能直から次男詫磨能秀に対する譲与が安堵されている。正嘉元年(一二五七)五月一〇日能秀母風早殿(大谷殿)から寺米欠如を訴えられた能秀は、重富名のうち現作田二〇町分の年貢銭五二〇文を七月一〇日以前に大谷長老に運上せよと各名の給主らに命じている(「大谷殿御墓寺々米用途支配状」同文書)。文保二年(一三一八)六月一九日詫磨道秀は次男親幸に当名内の田三町五反、屋敷分の園一町、畠地分一町二反などを譲っている(「沙弥道秀譲状」同文書)。鎌倉期の内容を示すと思われる年未詳の詫麻郡所領注文(同文書)によれば、神蔵庄二八名のうちの一名であった。


重富村
しげとみむら

[現在地名]旭町重富

都川つかわ村の北に位置。重富川とその支流が流れ、中央に尼子勢あまごぜ山がある。北は本郷ほんごう村、西は和田わだ村で、石見安芸道が通り、都川村赤谷あかだにに至る石畳道の石浦いしうら峠は難所とされた。貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文に那賀郡の公領として「しけとミ 六丁百八十卜」がみえる。福屋氏知行の旨の注記は後筆と思われるが、戦国期には益田氏の庶流である福屋氏の所領で、同氏の奉行人であった重富氏が支配したとみられる。当地は福屋氏の本拠地家古屋かこや城近隣の要地であった。天文(一五三二―五五)末年を最後に重富氏の名が福屋氏関係の史料から姿を消し(岡本家文書)、「陰徳太平記」に、重富党が毛利氏の策略により主家の福屋氏から謀反の疑いで討滅される事件がみえることなどから、この時期滅亡したものと推測される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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