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野宮定基 ののみや さだもと

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美術人名辞典の解説

野宮定基

公卿。定縁の男、実は中院通茂の二男。野宮家を継ぐ。和漢の学に通じ高橋宗恒について故実を学び有職故実に詳しい。白黄問答は定基が新井白石の問いに答えたもので有名である。『本朝実記』『平家物語考』『野宮日記』等著書あり。正徳元年(1711)歿、43才。

出典|(株)思文閣
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

野宮定基 ののみや-さだもと

1669-1711 江戸時代前期-中期の公卿(くぎょう),有職(ゆうそく)家。
寛文9年7月14日生まれ。中院通茂の次男。野宮定縁の養子。高橋宗恒(むねつね)にまなぶ。元禄(げんろく)7年,応仁(おうにん)以来断絶していた賀茂祭の再興に尽力。宝永元年参議,7年正三位。正徳(しょうとく)元年権(ごんの)中納言。同年6月29日死去。43歳。初名は親茂。号は松堂。編著に「群記類鑑」「新野問答」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

野宮定基

没年:正徳1.6.29(1711.8.13)
生年:寛文9.7.14(1669.8.10)
江戸前期の有職故実家。没日は一説に28日。中院通茂の次男。初め名は親茂。号は松堂,四酔など。延宝5(1677)年,叔父の野宮定縁の死去により後嗣となって野宮家を継いで定基と改めた。御厨子所預高橋宗恒に有職故実を学ぶ。元禄7(1694)年,応仁以来断絶していた賀茂祭の再興に尽力,それをきっかけに賀茂社関係の史料の収集に力を入れ,その成果として『群記類鑑』220冊を編纂した。当時,東園基量,平松時方,滋野井公澄と並んで有職四天王と称された。新井白石もその有職の学を高く評価,たびたび質疑するところがあり,定基はその応答を『新野問答』にまとめている。<参考文献>芝葛盛「勤王家としての野宮定基卿」(『歴史地理』11巻1号)

(白石良夫)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

ののみやさだもと【野宮定基】

1669‐1711(寛文9‐正徳1)
江戸中期の有職家。内大臣中院通茂の次男。母は野宮定逸の女。初名は親茂。1675年(延宝3)叙爵。77年叔父定縁の嗣となり野宮家を相続し定基と改名。累進して88年(元禄1)左中将,1704年(宝永1)参議,09年正三位となり,11年6月29日病気危急に及び権中納言に進み,同日没した。松堂と号し有職の学に詳しく,新井白石との問答を筆記した《本朝故実記》《車服問答》《新野問答》があり,《装束温故抄》《平家物語考証》《群記類鑑》などの著がある。

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