野村素介(読み)ノムラ モトスケ

20世紀日本人名事典 「野村素介」の解説

野村 素介
ノムラ モトスケ

明治〜昭和期の官僚,政治家,男爵 元老院議官;貴院議員(勅選)。



生年
天保13年5月18日(1842年)

没年
昭和2(1927)年12月23日

出生地
周防国吉敷郡長野村(山口県)

旧姓(旧名)
有地

別名
字=絢夫,通称=範輔,右仲,号=韋軒

経歴
藩士の子。藩校明倫館に学び、安政6年江戸に出て桜田藩邸の有備館に入り、ついで塩谷宕陰漢籍を、小島成斎に書道を学んだ。文久2年帰国して明倫館の舎長となる。3年野村正名の養子となり、慶応2年家督を継ぐ。維新の際は国事に奔走し、明治元年山口藩参政兼公儀人となり軍政主事となった。以降藩政改革尽力。2年権大参事となり、4年欧州を視察し、翌年帰国。茨城県参事から文部省に出仕して文部少丞、文部大丞、教部大丞、大督学等を経て、10年文部大書記官、13年元老院大書記官、元老院議官を歴任。23年勅選貴院議員となった。33年男爵。晩年書家として活躍し、書道奨励会会頭を務めた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「野村素介」の解説

野村 素介
ノムラ モトスケ


肩書
元老院議官,貴院議員(勅選)

生年月日
天保13年5月18日(1842年)

出生地
周防国吉敷郡長野村(山口県)

経歴
萩藩士の子。藩校明倫館に学び、安政6年江戸に出て桜田藩邸の有備館に入り、ついで塩谷宕陰に漢籍を、小島成斎に書道を学んだ。文久2年帰国して明倫館の舎長となる。3年野村正名の養子となり、慶応2年家督を継ぐ。維新の際は国事に奔走し、明治元年山口藩参政兼公儀人となり軍政主事となった。以降藩政改革に尽力。2年権大参事となり、4年欧州を視察し、翌年帰国。茨城県参事から文部省に出仕して文部少丞、文部大丞、教部大丞、大督学等を経て、10年文部大書記官、13年元老院大書記官、元老院議官を歴任。23年勅選貴院議員となった。33年男爵。

没年月日
昭和2年12月23日

家族
娘=大山 久子(外交官大山綱介の妻)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

朝日日本歴史人物事典 「野村素介」の解説

野村素介

没年:昭和2.12.23(1927)
生年:天保13.5.18(1842.6.26)
明治期の官僚。号は素軒。父は長州藩(山口県)藩士有地留之介。藩校明倫館で学んだのち,安政6(1859)年江戸に行き塩谷宕陰,安井息軒漢学を,江川太郎左衛門に兵学を,小島成斎に書道をそれぞれ学んだ。帰藩後,明倫館舎長となり,同藩士野村正名の嗣子となる。幕末,尊攘を唱え国事に奔走した。維新後,欧州視察(1871)を経て茨城県参事(在任6日間),文部大書記官,元老院議官などを歴任し,貴族院議員に勅選された。晩年は書家として著名で書道奨励会の会頭を務め,杉孫七郎,日下部鳴鶴らと共に明治三筆と称された。山口市香山園の「勅選銅碑」はその手になる。明治33(1900)年男爵。<参考文献>井関九郎編『現代防長人物史』

(長井純市)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「野村素介」の解説

野村素介 のむら-もとすけ

1842-1927 幕末-明治時代の武士,官僚。
天保(てんぽう)13年5月18日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。江戸で塩谷宕陰(しおのや-とういん)にまなび,藩校明倫館の舎長となる。維新後,文部大書記官,元老院議官などを歴任。明治23年貴族院議員。書家としても知られる。昭和2年12月23日死去。86歳。本姓は有地。号は素軒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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