野江村(読み)のえむら

日本歴史地名大系 「野江村」の解説

野江村
のえむら

[現在地名]城東区野江一―四丁目・成育せいいく一―五丁目・中央ちゆうおう一―二丁目・蒲生がもう二―三丁目

鯰江なまずえ川右岸にあり、村西端を通る京街道(東海道)をもって内代うちんだい(現都島区)に接する。集落は京街道沿いに集中し、集落近くの六段ろくたん池は宅地を造成した際にできたものと伝える(東成郡誌)。中世榎並えなみ庄に含まれた。

元和初年の摂津一国高御改帳には「油江村」とあり、「東成郡誌」所収の新井路取締帳には孝謙天皇に油を献上したので油江ゆえ村の勅号を賜ったとの伝承を載せるが、油江村の記載はほかにみられない。同高御改帳によると六二四石余、幕府領で和泉岸和田藩小出吉英預、寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳では直轄地となり、江戸末期に一部が大坂城代領(役知)となった。


野江村
のえむら

[現在地名]海部町野江

高園たかぞね村の西に位置し、北を海部川、南をはは川が東流する。南に浜方に出る馬路うまじ越がある。慶長二年(一五九七)の分限帳に「野江村」とあり、高四五五石余が益田宮内丞の知行分。慶長年間のものと推定される国絵図に「のへ」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「のえ村」と記される。寛永一五―一八年頃の作製と推定される阿波国大絵図では「野江村」の辺りに朱による道(土佐街道)が記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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