野沢原町村(読み)のざわはらまちむら

日本歴史地名大系 「野沢原町村」の解説

野沢原町村
のざわはらまちむら

[現在地名]西会津野沢のざわ

野沢盆地(野沢平)の南西部に位置する。東隣の野沢本町のざわもとまち村とにまたがって形成された町場(野沢町とよばれた)は越後街道の宿駅として発展した。町場の南方山中には端村四岐よまた(与又)がある。町場は街道を境に北分・南分に二分され、肝煎も二人置かれていた(「家言伝太」伊勢家文書など)。北町分のうち、北方の代官所(現野沢小学校)に通ずる小路はよこ町ともよばれた。当地の熊野神社の縁起書によると、文亀元年(一五〇一)当村草分となった原町六人衆(伊藤・石川・長谷川・三留・猪野・飯沢の六家)が、それまで山腰に散居していた家々を平地に集居させ、大永年中(一五二一―二八)領主に願出て町割を行い、街区を形成したのが当村の始まりという。なお「尾野本小学校郷土誌」では伊藤・石川・松原・長谷川・鈴木・猪野の六家を原町六人衆としている。

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では稲川いながわ郡のうちに野沢原町・小屋田こやだと併記され、高九〇一石余。小屋田は町場の西方にあり、当村の旧地とされる。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」では端村として四岐のほかに苦水にがみず如法によほう(寺)をあげるが、両端村は文化年中(一八〇四―一八)にはすでに廃村となっていた(新編会津風土記)。寛文五年の野沢組土地帳(西会津町史編さん室蔵)では高九二三石余、端村の苦水・如法寺・与又を合せて家数一二二、男四二六・女三七六、馬九六。旧記書抄(同室蔵)に載る野沢原町居屋敷間数改帳によると、元禄四年(一六九一)には南町分五九軒、北町分は寺・代官所を含め七一軒であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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