野辺地村(読み)のへじむら

日本歴史地名大系 「野辺地村」の解説

野辺地村
のへじむら

[現在地名]野辺地町 野辺地など

野辺地湾を北側に擁する海辺に位置する。北上した奥州街道が村内を通り、東と南は甲地かつち(現東北町)、西は馬門まかど村に接する。地名の初見は建武二年(一三三五)の北畠顕家国宣(遠野南部文書)である。

<資料は省略されています>

これは伊達宗政が所領である糠部ぬかのぶ七戸しちのへのうちの野辺地が横領されたとして訴えたことに対し、顕家が、南部師行を使者として宗政に沙汰付せよと命じたものである。「津軽一統志」に「七月廿一日此地発足南部口へ帰旅、太守国境狩場沢野辺地まで見送り此時于今諸方の境目究る」とあり、天正二〇年(一五九二)東奥巡見使前田利家が訪れたとしている。しかし利家は同年の朝鮮出兵で肥前名護屋なごや(現佐賀県東松浦郡)に出陣しており、同一八年のことと考えられる。この朝鮮出兵には南部氏も参陣しているが、随行した将士のなかに野辺地城主七戸将監がみられる(聞老遺事)。同年の領内の諸城破却の際にも野辺地城は破却を免れ、七戸将監の持分とされている。

文禄二年(一五九三)の南部信直書状(南部家文書)に「野辺地よこ浜」「野辺地」とみえ、初代藩主信直は八戸二郎(根城南部氏)に宛てて仙北せんぼく(現秋田県仙北郡)の米を野辺地へ回すことなどを指示している。野辺地湊は中世末には開かれていたものであろう。寛永二一年(一六四四)には浦番改が派遣された(雑書同年四月二六日・一〇月四日条)。正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に舟遠見番所がみえるが、これは文化元年(一八〇四)の書上(郷村古実見聞記)で見張番所と改められており、湊番所であったようである。

正保四年の南部領内総絵図に一一六石余とあり、同年の郷村帳によれば一一六・七五石のうち田が七五・九八二石であった。藩政当初は石井伊賀守直弥の知行地で、石井氏は野辺地とその近辺に合せて二千石を領し、野辺地城に居城した(岩手県史)。寛文五年(一六六五)七戸城(現七戸町)内に七戸代官所が設置されると、七戸通代官野辺地忠左衛門が野辺地代官を兼任し、野辺地城は藩の直轄となった。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に村名がみえ、七戸通の所属とされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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