野辺地湊(読み)のへじみなと

日本歴史地名大系 「野辺地湊」の解説

野辺地湊
のへじみなと

[現在地名]野辺地町 野辺地

陸奥湾の南東隅に位置し、野辺地湾に面する。

文禄二年(一五九三)の南部信直書状(南部家文書)に「野辺地よこ浜にてゑそふねあまたこしらへ候て、仙北衆金をほしかり候、米ニかへ候て、野辺地へまはし、用所調ミせ候へく候」とあり、初代藩主南部信直は八戸二郎(根城南部氏)に宛てて野辺地、横浜よこはま(現横浜町)で蝦夷船を造り、仙北せんぼく(現秋田県仙北郡)の米を野辺地へ回すよう指示している。湊の開かれた年代は明らかでないが、天文四年(一五三五)越前三国みくに(現福井県坂井郡三国町)から当村へ五十嵐甚右衛門が移住したといい(五十嵐家文書)、中世末頃には交易の湊であったと考えられる。雑書の正保二年(一六四五)二月一日条によれば浜浦の絵図書上のため瀬河助佐衛門に「六戸より東浦泊・横浜・野辺地・馬門迄」の見廻りが命じられ、同四年の南部領内総絵図に「野辺地浦 此所二丁沖ニテ深壱丈、舟懸自由、此所ヨリ九艘泊迄海上道規六里半、此所ヨリ津軽ノ内外浜迄海上道規十七里半、此所ヨリ松前城前迄海上道規二十壱里」とある。

慶安元年(一六四八)松前より商船一二艘の着岸があり(雑書)、寛文七年(一六六七)にはほん町に難船救助等の高札が立てられた(御領分高札集)。貞享二年(一六八五)藩では松前志摩守へ大豆一〇〇石を送るため野辺地で買集め、野辺地代官に船積みを命じており(雑書)、延宝五年(一六七七)には尾去沢おさりざわ立石たていし両銅山(現秋田県鹿角市)産出の五千二〇〇貫の銅が伊勢の商人中村又右衛門により野辺地湊から積出された(尾去沢・白根鉱山史)。のち幕府の俵物問屋に指定される仙台屋の永記録(安田家文書)の記事が元禄一五年(一七〇二)に始まっていることを考えると、この頃にはかなりの賑いをみせるようになっていたものと考えられるが、野辺地湊の本格的発展は御登銅(御用銅)や御登大豆の回漕によってもたらされた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の野辺地湊の言及

【野辺地[町]】より

…下北半島の基部にあたり,陸奥湾の支湾の野辺地湾に面する。近世,盛岡藩の北の門戸であった野辺地湊を中心に発達した。このため上方とのつながりも強く,祇園ばやしにそのなごりがみられる。…

※「野辺地湊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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