現
とあり、大銅山である。
寛文六年(一六六六)山師長尾重左衛門が
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
秋田県鹿角市尾去沢にあった鉱山。鉱山付近の地質は,新第三系中新統の凝灰岩,泥岩とこれを貫くプロピライト,流紋岩,石英安山岩から成り,その2km×3kmの範囲に銅,鉛,亜鉛,金,銀等の多種類の金属を含む数百条の割れ目充てん鉱床が知られている。
執筆者:山口 梅太郎
口碑によると8世紀初めの和銅年間の発見と伝えられているが確証はない。記録上銅鉱の採掘が始まるのは,1666年(寛文6)山師長尾重左衛門が田郡沢,赤沢で銅鉱を発見して以降で,86年(貞享3)に盛岡の商人熊谷治兵衛単独の請負稼業となってから急速に開発が進んだ。尾去沢鉱山の経営は1765年(明和2)に南部藩の直営となった。産銅は御用銅として幕府に買い上げられ,大坂に運ばれ輸出に向けられた(大坂廻銅)。藩営時代の産銅高は総計約4万t,年平均約380tにのぼり,一時は別子,阿仁などに次ぐ重要鉱山となるが,経営は赤字続きであった。明治維新後,尾去沢鉱山の経営は幕末に藩から請け負っていた鍵屋村井茂兵衛が継続するが,村井は藩が借り入れた外債の返済責任を不当にも負わされ,1872年(明治5)鉱山を大蔵省に没収された。大蔵省は村井の負債額と同額で同山を政商岡田平蔵に払い下げた。この払下げには当時の大蔵大輔井上馨が深くかかわっているとして,司法卿の江藤新平が調査を開始したが,江藤が下野,佐賀の乱で死刑になったため真相は解明されずに終わった(尾去沢疑獄事件)。尾去沢鉱山は87年三菱の幹部長谷川芳之助に譲渡され,89年岩崎弥太郎の手に帰した。以後,三菱財閥の中心的鉱山として発展し,足尾,別子,小坂,日立に次いで産銅第5位を誇った。準戦時体制下の1936年11月安全性を無視した増産が原因で高さ60mの巨大な鉱滓ダムが決壊し,死者362人,家屋倒壊400棟の大惨事を引き起こし,同年12月にも再び決壊した(尾去沢鉱山鉱滓ダム決壊事件)。第2次大戦後最盛期の58年ころには7000tの銅を生産したが,60年代になって鉱況が悪化し,66年3月製錬中止,72年4月三菱金属鉱業(現,三菱マテリアル)の全額出資子会社として分離独立し,尾去沢鉱山株式会社となるが,78年5月閉山した。現在も坑内から湧出してくる銅,カドミウムなどを含む強酸性の排出水の処理を行っている。また82年4月から同社は,県,市などとともに第三セクター方式による鉱山観光事業(〈マインランド尾去沢〉)に乗り出したが,2006年三菱マテリアル系のゴールデン佐渡に買収された。
執筆者:菅井 益郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
秋田県北東部、鹿角市(かづのし)にある鉱山。江戸時代には盛岡藩南部(なんぶ)氏最大の銅山であった。口碑によると、和銅(わどう)年間(708~715)の発見と伝えられるが確かではない。慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に白根(しらね)、槇山(まきやま)などで金が採掘されたが、まもなく衰え銅へ移った。銅が最初に発見されたのは1666年(寛文6)と伝えられる。その後、尾去沢地域の田郡(たごおり)、鹿沢(しかさわ)、赤沢などで稼行した。最初は藩から請け負った盛岡商人の手によって採掘されたが、1765年(明和2)以来明治に至るまで藩の直営となった。1771年の産銅額は約75万斤(約450トン)という。粗銅は野辺地港(のへじこう)へ運ばれ、西廻(まわ)り、東廻りで大坂へ回送された。明治になって村井茂兵衛が経営したが、旧盛岡藩の外国負債の代償として大蔵省が没収、岡田平蔵が払下げを受け、1889年(明治22)以来岩崎家(1893年三菱合資会社(みつびしごうしがいしゃ))の経営になった。1972年(昭和47)尾去沢鉱山に経営移管し、1978年鉱量の枯渇によって閉山した。その後は観光施設として公開されている。
鉱山は南北4キロメートル、東西2.5キロメートルに及び、地質は完新世(沖積世)中期で、獅子沢(ししざわ)層とよばれる硬質泥岩中に鉱脈がもっとも発達していた。銅のほか、金、鉛、亜鉛、硫化鉄、マンガンなどを産した。
なお、1936年11月、精錬所の硫化泥沈殿貯水池のダムが決壊して下流の坑夫長屋が埋没し、死者362人を出す大惨事を起こし、さらに12月にも再度決壊し12人の死者を出した。
[宮崎禮次郎]
秋田県鹿角(かづの)市尾去沢にあった銅山。阿仁(あに)・別子(べっし)とともに近世の御用三銅山の一つ。尾去沢地内で西道(さいどう)・五十枚などの金山が衰退したのち1666年(寛文6)銅鉱が発見され,田郡・元山・赤沢などの銅山となり,17世紀末に一括された。江戸・大坂の商人による請山(うけやま)稼行が続いたが,1764~1868年(明和元~明治元)まで盛岡藩の直営で,天保と慶応期には産銅高100万斤となった。明治初期に経営者が交代し,87年(明治20)三菱が入手,近代化の進展とともに三菱財閥の中心的鉱山として生産も上昇した。1936年(昭和11)安全性無視の増産により鉱滓ダム決壊の惨事がおきた。78年閉山。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…野辺地湊の繁栄は船宿制と廻船問屋仲間ができる安永期(1772‐81)以降である。上北郡産出の大豆,長崎俵物(たわらもの)の煎海鼠(いりこ),〆粕(しめかす),コンブなどの移出でにぎわったが,繁栄したのは尾去沢鉱山(現,秋田県鹿角市)産出の御用銅が大坂に積み出されたことによる。同鉱山の銅の積出しは1677年(延宝5)に始まるが,御用銅の移出開始は1716年(享保1)で,1801年(享和1)の野辺地湊積出しは57万9300斤であった。…
※「尾去沢鉱山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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