金手村(読み)かなでむら

日本歴史地名大系 「金手村」の解説

金手村
かなでむら

[現在地名]大井町金手

西境を酒匂さかわ川が流れ、東は金子かねこ村、南は西大井にしおおい村、北は松田惣領まつだそうりよう(現松田町)と接し、酒匂川より引水した酒匂堰西南を流れる。かつては東を川音かわおと川が、西隣吉田島よしだじま(現開成町)との間を西にし川が流れたが、文禄―慶長期(一五九二―一六一五)に酒匂川を西川に、川音川を北に移す工事がなされた(「蓮華寺縁起」蓮華寺文書)。小田原衆所領役帳に篠窪民部丞「五拾貫五百九拾弐文 西郡金手」とあり、天正一九年(一五九一)の金手村検地帳(県史四)にも篠窪民部居屋敷と門屋敷が記されている。同帳によれば田一三町三反半余、畑四町九反余、このうち四町五反余が「皆河成」「井ニ成」として不作分であった。

金手村
かなてむら

[現在地名]中津市金手・沖代町おきだいまち

中津平野東部の後背湿地で、村の大部分の地は池永いけなが村に属していたが、天保一三年(一八四二)湯屋ゆや村・永添ながそい村・宮夫みやぶ村・一松ひとつまつ村・牛神うしがみ村・蠣瀬かきぜ村・万田まだ村など八ヵ村の野末を切取って村を設定したといい、その頃三軒の家があったと伝える。しかし村の墓地に寛政二年(一七九〇)の銘がある墓など数本が確認され、それ以前から何軒かあったことが知られる(東沖台誌)。もともとこの地は低湿で、農作には不適であったから、農民は出稼をするようになり、いよいよ村中疲弊するようになった。そこで中津藩主奥平昌邁は家屋・農具種子を与えて他村より農民九人を移住させ、土砂を村下より矢流やな川を使って運んで土質を改良させた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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