金田徳光(読み)カナダ トクミツ

20世紀日本人名事典 「金田徳光」の解説

金田 徳光
カナダ トクミツ

大正期の宗教家 徳光教教祖



生年
文久3年9月20日(1863年)

没年
大正8(1919)年1月4日

出身地
大阪府八尾市

旧姓(旧名)
岡田 徳松,金田 徳松

経歴
生家は堺の商家。9歳で刃物商に奉公にでる。少年時代から山岳信仰の修行に惹かれ、犬鳴山、高野山などにこもる。明治11年金田家の養子となり金田徳松となり、15年刃物店を開業したが、一方真言密教と山伏行者呪術、神道思想の混じった加持祈禱、病気直し、占いによって帰依者を増やした。40年御嶽教大講義となる。大正元年相場師小田切徳照、日本国教大道社の山内良千らの支持をうけて、御嶽教に所属する徳光教会(本部・大阪府下天王寺村の自宅)を設立。この時徳光と改名。その教えを「神訓」18箇条として提示した。教育勅語を教義本旨として国家主義を唱導、教祖の“お振替”による病気直しや、相場の予言があたるという評判で、第一次大戦の戦争景気にのって盛行した。死後、教勢は衰えたが、その宗教思想は“ひとのみち”、PL教団にうけつがれた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「金田徳光」の解説

金田徳光

没年:大正8.1.4(1919)
生年:文久3.9.20(1863.11.1)
徳光教の教祖。大阪府中河内郡八尾町(八尾市)に,和田徳平と岡田ミネの子として生まれ,岡田徳松といった。明治4(1871)年から,浅香久平の経営する鉄工所に奉公し,浅香の感化を受けて,弘法大師信仰になじみ,また幼いころから霊視能力を発揮したといわれる。同11年,親戚の金田家の名義を相続し,金田姓となる。同15年には独立して,堺で金物商を始める。商売の一方で,弘法大師信仰から高野山参詣を熱心にし,修行も続けた。同37年ごろ,御岳教で教師の資格を取得し,同40年には大講義となる。商売は支店を開くほど繁盛したが,同44年に神のお告げによって,商売をやめ,信仰と布教に専念する。大正1(1912)年,国家主義的団体の幹部であった山内良千,相場師の小田切徳照らが参画し,大阪府下天王寺村の自宅を本部にして,御岳教徳光大教会を設立した。このときに徳光と改名。教育勅語を教義の本旨とし,国家主義的な教えと日常生活での修養を説いた。病気や苦しみを自分の身に振り替えるという「御振替」による病気治し,相場の予知能力の評判によって,第1次大戦中,好景気の大阪で信者を増やした。教祖の死後,教勢は衰えるが,幹部の御木徳一が教えを継承して,ひとのみち教団を開き,その後身のパーフェクトリバティー(PL)教団では,教祖を「幽祖」として崇敬している。

(川村邦光)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「金田徳光」の解説

金田徳光 かなだ-とくみつ

1863-1919 明治-大正時代の宗教家。
文久3年9月20日生まれ。徳光教の教祖。大正元年教育勅語を教義の本旨とする御岳教徳光大教会を設立。教祖が肩代わりするという「御振替(おふりかえ)」による病気の治療や相場の予言などで教勢をのばした。大正8年1月4日死去。57歳。大坂出身。旧姓は岡田。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「金田徳光」の解説

金田 徳光 (かねだ とくみつ)

生年月日:1863年9月20日
大正時代の宗教家。徳光教の教祖
1919年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android