超自然的な存在に訴えることによって、病気治療、降雨、豊作、豊漁などの望ましいことの実現を目ざした行為。
[吉田禎吾]
呪術は英語のmagicの訳で、まじない、魔術ともいわれるが、手品師を魔術師ともいうので、手品と区別するために呪術という語が用いられている。magicは、語源的には古代ペルシア語のMagus(占いや呪術を職業としている集団)に由来し、ギリシア語のmagos(マグス人、呪術師)はその借用語である。この行為の背後には超自然的存在に関する信仰が存在することが多いが、信仰が呪術的行為の前提であるとは限らない。
J・フレーザーは、呪術が超自然的霊格を統御することによって目的を達成しようとするのに対して、宗教は霊格に対する懇願であると述べて、両者を峻別(しゅんべつ)した。しかし、諸民族の宗教体系には両者の区別が明瞭(めいりょう)でないものが多く、宗教という用語のなかに呪術を含んで使われることが少なくないし、「呪術・宗教的」という語も用いられる。フレーザーはまた呪術と宗教の関係を発達段階としてとらえ、呪術のほうが宗教よりもより原始的であると論じたが、もっとも原始的とされる狩猟採集民においても、至高神の崇拝をめぐる宗教体系がみられることがしばしばあり、一概に呪術が古いとはいえない。たとえばアフリカの狩猟民であるサンとインドネシアのスマトラに住む農耕民ミナンカバウとを比較した場合、文化的には後者のほうが複雑であるが、呪術はミナンカバウのほうにいっそう顕著である。
長い間日照りが続くと、水をまいたり、太鼓をたたいたりして行う雨乞(あまご)い儀礼は世界各地の伝統社会にみられるが、水を地面にまき、太鼓をたたいたりする呪術は、降雨と雷鳴のまねである。このように望ましい現象と似たことを行う呪術を、フレーザーは「類感呪術」あるいは「模倣呪術」とよんだ。これに対し、日本に、病弱な子供を健康にするために、じょうぶな子供の着ていた着物の布きれを集め、それを縫い合わせて着せるという習慣がある。これは、フレーザーが「感染呪術」とよんだもので、「接触呪術」ともいわれる。他人を病気にさせるために、その人の毛髪、爪(つめ)、排泄(はいせつ)物、衣服などを火にかけたりする呪術も、感染呪術の一種である。雨乞いとか健康回復を目ざす呪術は、社会や人のために行う呪術として「白い呪術」ともいわれる。人を苦しめ呪(のろ)い殺すための呪術は「黒い呪術」といい、「邪術」sorceryともいわれる。
[吉田禎吾]
呪術はその社会の世界観と密接に関係している。たとえばインドネシアのバリ島には、他のインドネシア諸地域におけるように、右(手)を優越したものとして尊び、左(手)を不浄視する思想があるが、ここでは、呪術を「右の呪術」と「左の呪術」とに分け、「右の呪術」が病気の治療などを図る呪術のように、よい目的のための「白い呪術」であるのに対し、「左の呪術」は人を呪い殺すための悪い呪術、邪術、「黒い呪術」である。バリ島では、邪術によってかけられた病気を治す方法の一つとして、ヤシの木の北東側になっている若い実をとり、チュクリという陸貝の一種と、海のルンシルと称する貝を油で揚げ、その油をヤシの実の中に入れて混ぜたものを患者に飲ませるという。なぜ北東側になっているヤシの実を使うかというと、バリ南部では北東側がよい方角と考えられているからである。バリでは、「山の方」と「海の方」という象徴的二元論が際だっており、「山の方」が神聖な方角であり、「海の方」が不浄な方角とされている。バリ島中部が山岳地帯になっているため、バリ南部では「山の方」がほぼ北方にあたり、北部では「山の方」が南方にあたる。これとともに、東方を神聖視するので、バリ南部では北東がもっともよい方角となる。北東側になったヤシの実が治療薬として尊重されるのは、このようなバリの方位観に由来している。
メキシコ南部のマヤ語族に属するツォツィルTzotzil語を話すインディオは、病気を治療するための呪術・宗教的な儀礼を行っている。これを行うのは呪医で、病気治療のための儀礼は一般に東に向かって行う。儀礼のなかで首をひねって殺した鶏が、頭を東に向けて倒れると病気は全快するといわれる。また儀礼のなかで患者の周りに立てた何本ものろうそくが燃え尽きたとき、芯(しん)が東の方に倒れるのは病気の回復を意味するという。これは、彼らが東を「日が昇る所」として尊重し、西を「日の沈む所」として悪い方位としているところからきていると思われる。
これらのインディオは、飲食物や植物を「熱い」と「冷たい」のカテゴリーに分類しているが、邪術を行う場合、洞窟(どうくつ)の中で「熱い」と分類されている牛肉を埋めると、相手は発熱と下痢に苦しむとされ、卵、カタツムリ、魚など同様に「熱い」とされている食物を埋めると、相手の胃が熱くなるという。そして「冷たい」と分類される豚肉を埋めると、相手は寒気を催し、風邪(かぜ)をひくと考えられている。豚の頭を西向きに埋めると、相手の腹を冷やし、下痢をおこすという。ここに「日の沈む所」(西)を悪い方位とする観念も表れている。健康体は「熱い」と「冷たい」の均衡が保たれていることであり、この均衡が崩れ、「熱い」状態になりすぎると、また「冷たい」状態になりすぎると病気になるとされている。これを呪術・宗教的な儀礼によってもとの均衡状態に戻すのが呪医の役割なのである。
[吉田禎吾]
ヨーロッパにおいて16世紀から17世紀にかけて、いわゆる「魔女狩り」が盛んに行われた。魔女というのは、なにか超自然的な方法で他人に害を与えるとされる女性のことである。呪術によって他人を病気にさせ、あるいは危害を与えるとされた者の多くが女性であったことは明らかであるが、なかには男性もいたので、魔女という語はかならずしも適切でない。呪術によって他人を病気にさせたり、危害を与えることができるという信仰はヨーロッパに限らず、前述のインディオそのほか多くの伝統社会にみられ、呪術(邪術)を用いたと非難される者が女性である社会も少なくないが、なかには、アフリカのルグバラLugbaraのようにつねに男性である社会もある。したがって、こういう現象を広く比較してみるためには、魔女という語は適切でない。文化人類学では妖術(ようじゅつ)師とか邪術師という語のほうが用いられることが多いし、しいて日本語にせず、英語のウィッチwitchという語がそのまま使われることもある。
アフリカのアザンデの人々の間では、ある人のもっている神秘的な霊力が働き、その人に意図がなくても、他人に憎しみやねたみを感ずると、相手の人に災いをもたらすと信じられている。そのような一種の心霊作用は妖術witchcraftといえよう。このほかに意図的に他人に災いを与えるために行う呪術(邪術)の観念がある。このように妖術と邪術の区別はアザンデの人々が行っているのであって、伝統社会において、両者の区別が明白になされていない所も多く、アザンデの人々のいうような邪術の信仰があって、無意図的な心霊作用を意味する妖術の観念の欠如している社会もしばしばある。ここで注意しなければならないのは、ヨーロッパの妖術の観念と、アザンデのそれとの相違である。前者の場合にはキリスト教神学とともに科学思想が存在していたわけで、両文化の観念体系という脈絡を離れて妖術を論ずることはできない。
魔女、妖術師、邪術師などの容疑者に対する非難はどの社会においても大なり小なり行われるが、こういう非難や迫害が16、17世紀のヨーロッパにおけるほど激しく行われた例はほかに見当たらない。
ヨーロッパの妖術信仰においては、前述の邪術と妖術の区別はかならずしも明白ではなく、これをすべて意図的な呪術としての邪術に含めてしまうことはできない。またヨーロッパにおける妖術観念はキリスト教が生み出したものではなく、キリスト教が広がる前から存在したことも明らかである。キリスト教化された西洋社会がそれを一定のステレオタイプに性格づけ、妖術師を悪魔と契約を結んだものとして激しく迫害したのである。ヨーロッパの妖術の全盛期(16~17世紀)は、経済的、政治的、社会的な変動の嵐(あらし)が各地に巻き起こっていた時代であり、このような社会不安は妖術師とされた者への迫害を激化させた一因であるといわれる。
妖術や邪術の信仰が存在する社会では、当然これらに対抗するための手段、これらを防ぎ、治療する手段がとられる。治療の場合に、妖術(邪術)をかけた者の発見が必要条件とされることもある。予防のためには、下につける下着を頭にかぶるような「逆さまの呪力」を用いるとか、排泄物の呪力を活用することがある。
妖術(邪術)の患者を治療する場合にも、象徴的逆転といわれる呪術が行われることがある。メキシコのマヤ系インディオにおいては、呪医が病気治療のための儀礼を行うが、邪術による病気の治療においては、ある呪医によると、ろうそくを逆さまにし、その底部を切ってしんを出し、これに火をともして祈る。これは邪術を「ひっくり返すため」であるといわれ、ここに象徴的逆転の観念がうかがえる。
妖術はいろいろな社会で(たとえばバクウェリの社会で)「ねたみ」「そねみ」の観念と結び付いており、妖術師のねたみを買うとその餌食(えじき)になると信じられている。アフリカの農耕民ニャキュサの妖術師は、夜間に空中を飛んできて、恨みに思う者を襲うとされている。ねたみを受けると妖術師の攻撃を受けやすいとされている。また妖術師は、けちな人をねらうともいわれる。要するに妖術師は、けちな人間や、不親切な人間、成功しすぎた人間を襲うと信じられている。こういう人間はまた妖術師の嫌疑を受けやすい。このように、妖術や邪術に対する恐怖が、人々に社会の規範に従わせるという面を備えていることは否定できない。
[吉田禎吾]
妖術の観念が存在する多くの社会において、妖術の観念はそれぞれの社会に応じて著しく異なり、妖術という語を安易に使うべきでないとする学者もいる。しかし反面において、互いに地理的、歴史的、文化的にかけ離れ、異なる諸民族の間に存在している妖術師の観念には類似点もみられる。多くのアフリカ社会、古代ローマ、中世から近世にかけてのヨーロッパ、北アメリカのナバホには、妖術師自ら動物に変身することができ、人の死体を食べると考えられている。東インドネシアのロングレン(レンバタ)島のケダンでも、妖術師はカラス、ネズミ、蛇に変身するとされている。いろんな社会における妖術師のイメージは、その社会の正しさ、善、常人とまったく反対のイメージであり、邪悪のイメージである。社会の秩序に関する基本的な条件はどの社会においてもそれほど違うものではないので、妖術者についてのイメージには、差異のある反面、このように類似する要素がみられるのである。アフリカのルグバラの社会では、妖術師(つねに男性である)は動物に変身できると信じられており、普通の人間が黒いのに対して妖術師の皮膚の色は白いか灰色であり、身体のどこかにほかとは異なる点があるとされている。足が不自由であったり、背が曲がっていたり、睾丸(こうがん)が一つであるとか、性的に不能であるとか、あるいは近親相姦(そうかん)を行い、人肉を食べるといわれ、さらに夜に逆立ちして歩くという。これらはいずれも普通の人間の正反対の特徴か、どこか普通の人と違う点を備えている。
ルグバラとは言語と文化の異なるナイル川流域の牧牛民ディンカDinkaの妖術師のイメージをみると、妖術師には人間の指くらいの短いしっぽがついているという。ディンカはホームステッド(居留している土地)の真ん中で排便することはなく、つねに野生の土地に行ってする。ところが、妖術師はホームステッドの真ん中で排便したり、料理用の器にひそかに小便をして逃げるという。南スーダンの民族集団マンダリMandariにおいても、妖術師にはしっぽがあるとか、妖術師は人間の死体を食べたり、獣姦を行うとされている。また妖術師は排便すべきでない所に排便するという。これらもすべて正常な人間の行わないことで、正常な行為の逆さまな要素である。ヨーロッパの魔女たちが行ったとされる集団的な黒いミサも、実際に行われたわけではなく、このような魔女に対するイメージの一つを表すものだとノーマン・コーンNorman Cornは論じている。
[吉田禎吾]
現代の社会において、呪術的行為は消滅したわけではなく、飲食店に招き猫が置かれ、自動車に神社仏閣などの御守(おまも)りがよくみかけられる。招き猫や御守りは呪物である。また結婚式に「吉日」を選ぶのは一般的である。科学技術の進歩に伴って、古代から受け継がれてきた呪術や俗信を不合理であるとする見方が出てくると、これらを「迷信」とよぶようになる。「迷信」という観念自体、社会の近代化に伴って生まれるものであり、また自分の信じていない他人の信仰が迷信とよばれることが多い。かつてタイラーE. B. Tylorは『原始文化』(1871)のなかで呪術のことを、人類を悩ましてきた「幻想」であると述べたが、その後、現地調査が進むにつれて、それが多くの住民にとっては、まぎれもない「現実」であることがわかってきた。さらに現在では、呪術とか魔法という言葉自体が、西洋的な合理主義から見下した思考に基づいており、非西欧社会の「論理」を無視したとらえ方であるという見解もある。また1970年、1980年から、たとえば、アメリカ大陸の先住民の呪術やシャーマニズムには西洋の科学では説明できない現象があるという論議がなされており、フランスの農村で邪術の調査をした人類学者(ファブレ・サーダ)は邪術には客観的現実性があることを1977年の著書で述べている。アフリカのソンガイで調査をした人類学者(ストーラーとオルケス)は実際に邪術に攻撃された経験について記している。
[吉田禎吾]
『J・A・ロニー著、吉田禎吾訳『呪術』(1984・白水社・文庫クセジュ)』▽『豊島泰国著『図説 日本呪術全書』(1998・原書房)』▽『E・E・エヴァンズ・プリチャード著、向井元子訳『アザンデ人の世界――妖術・託宣・呪術』(2001・みすず書房)』▽『武光誠監修『すぐわかる日本の呪術の歴史――呪術が日本の政治・社会を動かしていた』(2001・東京美術)』▽『松本浩一著『中国の呪術』(2001・大修館書店)』▽『上田篤著『呪術がつくった国 日本』(2002・光文社)』▽『黒塚信一郎著、豊嶋泰国監修『呪術秘法の書――神仏呪法実践読本』『呪術秘法の書――神仏呪法実践読本2』(2000、2003・原書房)』▽『吉田禎吾著『呪術』(講談社現代新書)』
一般に,超自然的な方法によって意図する現象を起こそうとする行為,信仰,観念の体系の総称。英語magic(マギ)などの訳語で,〈魔術〉〈奇術〉も元来は同じ言葉だが,宗教学や人類学ではもっぱらこの語を用いる。〈魔術〉は特に西欧における神秘思想の一領域を指すことが多い。
呪術を成り立たせているものは具体的には呪的行為と呪物(呪具)であり,そしてそれを観念的に支えているのは呪的信仰体系や呪的思考様式である。呪的行為には身体的動作だけでなく言葉による呪術,つまり呪文も含まれる。呪的行為はたいてい定型化されており,型どおりにすることによって呪的効果が生じると考えられ,逆にその手順を誤ると効きめがないとされる場合が多い。とくに呪文については正確さが要求されることが多く,たとえばメラネシアのトロブリアンド島では呪文が呪術の主要部分をなしており,呪文を一語でもまちがえると効力を失うとされる。他方,呪文より呪具が重要視される社会もあり,たとえばアフリカのアザンデ族では呪文も使われるが,その場その場で少し変えることもでき,呪文よりむしろ木製の呪具のほうが重要である。
呪術に対する信仰は呪力に対する信仰と密接に結びついている。特定の物や人間,あるいは人間の行為が超自然的な力をもつとする考え方に基づき,その力を用いて目的を達しようとするものが呪術であるともいえる。一般に神聖で非人格的な力をオセアニアに語源をもつマナという言葉で呼ぶが,M.モースは呪術はそのようなマナの観念と結びついていると主張した。この見解はマリノフスキーによって否定されたが,呪術信仰の背後には,もちろん社会によって異なるが,当該社会で信じられている力の観念があると考えられる。
呪術の基盤にある原理によってJ.G.フレーザーは呪術を類感呪術homeopathic magicと感染呪術contagious magicとに分けた。類感呪術は模倣呪術imitative magicともいい,類似の原理に基づくもので,たとえば雨乞いのため火をたいて黒煙を出し,太鼓をたたいたり,水をふりまくのは雨雲,雷,降雨のまねである。感染呪術は接触呪術ともいい,一度接触したものは離れた後もたがいに影響を与えつづけるという考え方に立つもので,日本で病弱な子を健康にするため近所の元気な子の着物の切れ端を集め,縫い合わせて着物を作り着せるのはこの呪術である。そのほかしばしば行われる分類に白い呪術と黒い呪術がある。白呪術とは社会のためになる,生産的,防御的な呪術で,黒呪術とは人々に災いをもたらす,破壊的な呪術である。ただし同じ呪術が立場や見方によって白呪術とも黒呪術ともなる場合もある。また,一般に黒呪術とされるものに邪術sorceryと妖術witchcraftがある。邪術はさまざまなまじないを行って,意図的に相手に危害を加えようとする破壊的呪術であり,妖術は相手に危害を与えようという意図がなくても,嫉妬(しつと)や憎しみを感じると,その人が生得的にもっている霊力が発動し,相手に災いをもたらすというものである。両方が明確に区別されている社会と,はっきり分かれていない社会もあり,また一方しかない所もある。ヨーロッパの魔女信仰は妖術信仰の一つである。
妖術と邪術の機能については多くの分析がなされているが,これらの信仰はまずさまざまな不幸の説明原理としてある。アフリカのアザンデ族はたとえば人が象に踏み殺されたとき,象が1番槍(第1原因)で妖術が2番槍(第2原因)だと考える。彼らは狩りをしたとき,1番槍を当てた者と2番槍の者が優先的に獲物の良い部分をとることができ,二つの槍の両方があって初めて獲物を殺すことができたと考える。同じように象と妖術のどちらが欠けてもそのような悲劇は起きなかったと考える。つまりこの場合象が死の物理的原因であれば,妖術はもう一つの原因,超自然的な原因である。多くの人々は不幸に遭ったときその説明を求める。そのとき妖術や邪術が,われわれなら偶然や運命という言葉で片づけるものの代りにもち出されるのである。
妖術や邪術の信仰は社会の変動期に盛んになることが多い。またフォーマルな社会統制の制度が発達していない社会に多い。そして妖術や邪術の告発は互いの役割や社会関係があいまいな社会,あるいは互いの社会関係があいまいで対立を生みやすい状況で発生しやすい。さらに,妖術師や邪術師の嫌疑を受けやすい人,逆に妖術や邪術の犠牲になりやすい人は,どちらも一般に道徳規範からはずれる人,反社会的な行動をする人が多い。これらのことから妖術,邪術信仰の社会的機能が論じられる。すなわち,これらの信仰は社会的逸脱者に対する社会的制裁の機能をもち,社会の規範を明確にし,それを守らせる機能をもっている。また人間関係のあり方,役割を明らかにする働きをもっている。結局これらの信仰は社会構造を維持する機能をもっていると考えられるのである。
呪術は単に無知な人々の迷信ではなく,なんらかの役割,機能をもつ。マリノフスキーはトロブリアンド島の呪術を詳しく現地調査し,たとえば危険な遠洋航海に出る前には念入りな呪術を行うが,安全な沿岸での漁労の場合は行わないことなどから,呪術は人々の不安や恐怖をとりのぞく機能(心理的機能)があることを力説した。確かに他の民族でも,危険な仕事に従事する人の間ほど呪術が盛んである傾向がみられる。これに対して同じく機能主義的な考え方ながら心理的機能より社会的機能を重視するラドクリフ・ブラウンは,呪術や宗教,儀礼はむしろそれがあるために人々に不安や恐れを与えるという側面をもつと言い,そのような不安や恐れを人々が共有することによって,相互の結合が強められる,と呪術の社会的機能を力説した。この2人の次の世代に属する社会人類学者J.ビアッティJohn Beattieは,呪術はある状況からの演出であり,象徴的な意味における願望の表現であると主張し,呪術の情意的側面を強調するとともに,呪術の象徴性を指摘した。確かに,呪術には自分の願望を明らかにすること,呪術を行うことそれ自体が意味をもつという側面がある。呪術はまた人間の象徴操作活動と切り離して考えることはできない。フレーザーによれば,呪術師は表現的行為と技術的行為を混同しているのだが,両者がなぜ混同,同一視されるのかのより深い考察をフレーザーは行っていない。
呪的行為や呪具はなんらかの象徴的意味をもっている。しかしその意味はさまざまな角度から解釈されなければならない。メキシコのマヤ族では病気治療の呪術のときには白いろうそくを使う。人をのろう邪術の場合は,たとえば洞窟の中でろうそくを上下逆にして火をつけ,豚の頭を西向きにして埋めると,相手は腹を冷やして下痢となる。白いろうそくは天に祈るときに用いられ,ろうそくは煙となって天に上り,祈りの言葉を神に伝えるという。邪術でろうそくを逆にするのは,天や神に祈るときとは逆,上と下が逆になることに意味をもたせている。豚の頭を西向きにするのは,東は太陽が上る所だが西は沈む所で,東と西の対立は優と劣,善と悪,吉と凶の対立でもあることによる。豚を使うのは,彼らが食物をすべて熱い食物と冷たい食物の二つのカテゴリーに分けており,豚は冷たい食物であるからである。また洞窟は天でも地でもないどちらつかずの境界的位置にあることから危険な力,異常な力をもっている場所と考えられている。
呪術はなんらかの目的,たとえば雨を降らせたいとか,恋敵を殺したいとかの目的をもっている。そこで問題となるのは,その目的を達成するための手段,方法である。雨を降らせたいとき,恋敵を殺したいとき,その方法は3通りありうる。第1は降雨のメカニズムを解明して雨を発生させる物質を使用したり,恋敵を武器を用いて殺す方法である。第2には神その他の超自然的存在に雨を降らせてほしい,恋敵を死なせてほしいと祈願する方法がある。そして第3に山の上で火をたいて雨乞いの儀礼を行ったり,恋敵の人形を作ってそれを傷つけてのろうといった方法がある。このことからフレーザーは科学,宗教,呪術の違いを次のように説明した。第1の方法が科学であり,科学とは実証的に検証できる知識である。第2,第3の方法はそれぞれ宗教と呪術であり,ともに経験的,実証的検証を経ずに主張される知識である。さらに宗教と呪術は次の点で対立する。宗教は信ずることから始まるもので,検証は不可能というより無意味であるが,呪術はある程度の検証が可能である。つまり呪術の場合,意図した目的が達せられるかどうかでその呪術の有効性,正当性あるいは無効,誤謬を証明しうる。また宗教は,究極的にはあらゆる現象を支配,統御するものは神などの超自然的存在であると考え,したがって人間はそれらに対して懇願することによって目的を遂げようとする受動的なものであるのに対して,呪術は霊的存在や非人格的な力など,目的とする現象を支配しているものを人間が強制,統御してその現象を起こさせることができると考える能動的なものである。呪術は,現象を人間がコントロールしようとし,またできると考える点で,また部分的にせよ検証が可能である点で科学に類似している。ただし科学は正しい自然科学的な因果関係に基づくが,呪術は誤った超自然的な因果関係に基づいているとフレーザーは考えた。そこで彼は呪術を偽りの科学,擬似科学であるとした。またフレーザーは呪術を宗教に先行するものと考えたが,デュルケームは宗教先行説をとり,また宗教は精神的,絶対的なものにかかわっているが,これに対して呪術は現実的,実利的であるとした。
このような宗教と呪術,またそれらと科学との区別は現在でもしばしば用いられ,支持される説ではあるが,これに対する批判もまた多い。まず,多くの人類学者が指摘するように,実際には宗教と呪術の境界はあいまいで,両者が混在している場合が多く,宗教と呪術を峻別できるかは疑問である。次に問題となるのは宗教と呪術を進化論的図式の中で位置づけることである。このような進化主義(文化進化論)的な見方は後に厳しく批判され,今日ではあまり支持されていない。宗教と呪術の区別とその進化論的図式化は西欧文化中心主義的な考え方の産物ともいえる。また,呪術をまちがった因果律に基づくとする考え方はレビ・ブリュールに受け継がれ,未開人の心性は前論理的で〈融即の法則loi de participation〉に支配されていると主張されたが,このような見方に対しても,未開人も文明人と同じく論理的,合理的に考える,という批判がある。いかなる民族も環境を論理的,合理的に把握することができなかったら生きていくことはできず,たとえば狩猟民サンの自然に対する認識はきわめて深いことはよく知られている。未開人の呪術を文明人の科学と比較することは誤りであり,比べるなら未開人の自然に関する知識や技術と文明人の科学,未開人の呪術と文明人ももっている呪的信仰とを比較すべきである。レビ・ストロースは,宗教とは自然法則の人間化であり,呪術は人間行動の自然化,つまりある種の人間行動を自然界の因果性の一部分をなすものであるかのごとく取り扱うことであり,両者は二者択一の両項でもなければ発展段階の2段階でもない,と言っている。
→奇術 →魔術
執筆者:板橋 作美
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…この世界は,感情的なイメージの類推によって結合がおこなわれるために,不安をもつ被援助者を鎮静させる行動をとりやすい。これが,いわゆる迷信とか,呪術(じゆじゆつ),魔術につながる援助的行動で,未開社会あるいは原始的社会における医療の起源として,しばしば引用されるものである。しかしそれは,原始社会に限らず,現代の科学的に高度に洗練された医学の背後にも存続して,論理の誘導に大きな働きをしている。…
…つまり一見不可思議なことを知られざる合理的手段で達成する手練の技。(2)〈呪術〉。すなわち呪物や呪文を用いて超自然的な現象を起こさせると信じられている方術。…
※「呪術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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