針道村(読み)はりみちむら

日本歴史地名大系 「針道村」の解説

針道村
はりみちむら

[現在地名]東和町針道

阿武隈高地の西斜面にあり東と南は小手森おでもり村、西は内木幡うちこはた村、北は郡境で伊達郡大綱木おおつなぎ(現川俣町)に接する。標高三五〇―四五〇メートルの比較的開けた谷間集落が散在している。字北作きたさく北柵きたさく館ともいう針道館跡がある(相生集)。大内備前の臣針道源太の居館と伝える(奥陽仙道表鑑)。天正一三年(一五八五)九月、大内備前を敗走させた伊達政宗は、ただ一つ残ったこの館を無視して通過しようとしたため、針道源五兵衛に悪口雑言を浴びせられ、二日間かかってようやく落城させたという(「積達古館弁」など)


針道村
はりみちむら

[現在地名]鶴来町なか郷町ごうまち

手取川扇状地の扇央部に位置し、南は日向ひゆうが村、西は来同らいどう村。中世には鶴来町北西部に比定される針道庄の庄域で、村名はその遺称とされる。応永一八年(一四一一)八月二八日の足利義持御判御教書(伏見稲荷神社文書)に京都伏見稲荷社領「針道庄」とみえ、同社の直務支配が許されているが、建武元年(一三三四)九月四日味智みち郷水田二〇町が同社領として安堵されており(「雑訴決断所牒」同文書)、針道庄は味智郷から分出したものと考えられる。


針道村
はりみちむら

[現在地名]桜井市大字針道

八井内やいない町から上宮奥かみみやのおく(現宇陀郡大宇陀町)に至るおお(宮奥峠)西方に立地。慶長郷帳の村高七六・五石。幕府領(代官角南重勝)。元和五年(一六一九)津藩(藤堂高虎)領に編入され、廃藩置県に至った。「宗国史」に戸数二〇、人口一〇三を数えるが、「桜井町史 続」所収の元治元年(一八六四)の伺には七軒とあり、多くは八井内町に移住したという。

当村は宇陀郡吉野郡へ至る幕府巡検使の通路にあたり、「明和年中より甚太郎一代記」(橿原市の吉川家文書)によれば、天明七年(一七八七)七月七日に幕府巡検使は前夜宿泊の松山まつやま(現大宇陀町)出立、大峠を経て当村で昼食、多武峯寺参詣ののち、ほそ峠越で上市かみいち(現吉野郡吉野町)に宿泊しているので、十市郡下の津藩領村役人らは当村につめかけ、道作・伐木人足を指揮している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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