鈴田村(読み)すずたむら

日本歴史地名大系 「鈴田村」の解説

鈴田村
すずたむら

[現在地名]大村岩松町いわまつまち小川内町おがわうちまち平町ひらまち中里町なかざとまち大里町おおざとまち陰平町かげひらまち

大村の南東に位置し、南西部の陰平で鈴田川が大村湾に注ぐ。長崎路が通り、地内に一里山が置かれ(慶安二年肥前国道法帳)大里に憩場、肥前佐賀藩領との境目に鈴田峠がある。古くは今里いまざと村と称していたとされ、中世彼杵そのき庄のうち。嘉暦四年(一三二九)七月三日の東福寺領肥前国彼杵庄文書目録(正慶乱離志裏文書)に針尾兵衛太郎入道覚実の所領として「江上・小鯛・鈴田」が記される。一五七〇年(元亀元年)一〇月二一日のイエズス会士フィゲイレド書簡(イエズス会士日本通信)にススタSusutaみえ大村純忠一家の受洗に次いでススタの町の臣下二七〇人も受洗の準備をしているという。純忠はそれを実行することを依頼、神父が長崎から七里の道を赴いてススタで受洗した際には自らも立会い、励ましを与えた。この様子はフロイスも伝えている(フロイス「日本史」)。一六〇〇年(慶長五年)にレジデンシアが置かれ、一六〇六年まで存続した。一六〇三年にはバルタザール神父とイルマンの西ロマンが当地に配属されていた(シュッテ「日本歴史史料集」I)。地内に城跡六ヵ所・寺院八ヵ所があり、うち陰平の岩松城は針尾河内はりおかわち城ともよばれ、空堀を伴う平場などを遺構とし、文明六年(一四七四)一二月有馬貴純の進攻では大村純伊は鈴田道意に守護させたという。大村純忠の時代に伊佐早勢と戦った塔の峰とうのみね城のほか、中世寺院とされる久良くら寺・西明さいみよう寺などの跡がある。大里に道意が拠点にしたという館跡、東部の中里に中世の無量むりよう寺跡や墓碑がある(大村郷村記)

江戸時代は大村藩地方じかたに属する。慶長一〇年の大村領内高目録に鈴田村とみえ、高一千六〇石余で、田七四町二反余・畠二〇町二反余、物成五八三石余。同一七年の総検地では高一千五六二石余となるが(同一八年彼杵郡内検高目録)、朱印高は一千六〇石余とされた(元和三年「大村純頼領知目録」大村家記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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