鍋山村
なべやまむら
[現在地名]栃木市鍋山町
大久保村・梅沢村の北西に位置し、村内中央部で永野川と出流川が合流する。鍋を伏せたような山容という三峰山が北東にそびえ、同山がアイヌ語で岩石(石灰岩)を意味する山であることから地名が生じたともいう。北西の星野村境近くに寺尾があり、現存の史料には鍋山より早くにみえる。応永六年(一三九九)一二月日の島津道祐等言上状(島津文書)に戸矢子保のうち「寺尾村」とあり、島津氏の「譜代相続地」で永徳二年(一三八二)三月の小山義政の乱の勲功の賞として還補されたが、至徳年中(一三八四―八七)高掃部助入道に闕所分と号して押領されたため、関東府に裁許を求めている。慶長一七年(一六一二)の関東八州真言宗諸寺連判留書案(醍醐寺文書)に宝蓮寺の所在地として「佐野荘寺尾」とみえる。
鍋山の初見は、尭雅僧正関東下向記録(醍醐寺文書)の元亀元年(一五七〇)九月二一日条で、鍋山宝蓮寺とあり、尭雅より印可を受けている。同寺法印の祐兼は天正八年(一五八〇)に松橋末流の秘密道具の模写を免許されている(同年五月一六日「大僧正尭雅契状案」同文書)。天正一六年とみられる一月一七日の佐野氏忠印判状(小曾戸文書)では、「鍋山衆 小曾戸摂津殿」宛に参陣衆の兵粮支度として出銭三〇〇文を命じている。
鍋山村
なべやまむら
[現在地名]郡山市三穂田町鍋山
野田新田村の西、笹原川南岸の平坦な丘陵地帯に立地。現在は消滅したが、直刀・鉄鏃・土器類が出土した四十壇古墳(円墳)のほか、多くの古墳群があった。字芳堀に鎌倉期とみられる浮彫阿弥陀三尊来迎供養塔がある。宇奈己呂和気神社の一の鳥居があった地と伝える鳥井戸のほか、番所・番ノ沢・行人原・六角・春雨壇・鍛冶屋敷などの地名が残り、宇奈己呂和気神社の門前として成立した村とされている。
鍋山村
なべやまむら
[現在地名]韮崎市神山町鍋山
北宮地村の南に位置する。村域は釜無川右岸の氾濫原から西部の山麓に及び、南は釜無川に注ぐ甘利沢に限られる。集落の北西方には伏せた鍋に似た形状の鍋山(城山ともいう)がそびえ、同山頂には武田信義の築城と伝える白山城跡があり、同城の根古屋として発達したとされる。北東部に枝郷の御堂がある。天正一七年(一五八九)一二月一一日の伊奈忠次知行書立写(記録御用所本古文書)に「九百五拾壱表壱斗五升八勺 なべ山之郷」とあり、当地などが武川衆中に宛行われている。
鍋山村
なべやまむら
[現在地名]佐倉市鍋山町
佐倉城下の北側、城下弥勒町の北西に位置。東ノ切上・東ノ切下・南ノ切・西ノ切・北ノ切などの地名があり、周囲は切立った崖地となっている。「寛文朱印留」に佐倉藩領として村名がみえ、以後同藩領。元禄郷帳では高一三石余。
鍋山村
なべやまむら
[現在地名]明野町鍋山
井出蛯沢用水の沿岸にあり、北は内淀村。江戸時代は天領・旗本領で、元禄郷帳の村高は一九〇石余。幕末は天領一五石余、旗本斎藤氏領三〇二石余、松原村大勝寺領一石余、同新善光寺領九斗余(各村旧高簿)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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