日本歴史地名大系 「長岡庄」の解説 長岡庄ながおかのしよう 京都府:向日市長岡庄向日丘陵やその周辺一帯にあった荘園。長久四年(一〇四三)一二月二八日付乙訓郡司解(神田喜一郎氏所蔵文書)に「乙訓郡司解申請 按察大納言殿 政所御告書事」として「壱紙 可被載早令停止色々切物、免除長岡庄田畠臨時雑役状」とみえる。次いで翌年一〇月七日付乙訓郡司解(同文書)には、臨時雑役并切物等を免除すべき坪付として田辺里三一坪六段、高庭里三五坪四段、母底里二坪三段等が示される。同解に「件高庭里・母底両里雖有当郡内、春宮大夫殿御 領富坂御庄之内、為一郷不入勘検田使、随則無進退国郡、何況乎臨時雑役切物充負哉」とあって長岡庄の一部は富坂(とみさか)庄(現京都市西京区)に重複していた。 長岡庄ながおかのしよう 岡山県:久米郡長岡庄「和名抄」久米(くめ)郡長岡郷の郷名を継ぐものか。遺称地は不明であるが、史料上に横山(よこやま)(現津山市)、栗子(くりご)・藤原(ふじわら)(現柵原町)、肥尾(こよお)(現中央町越尾)などがみえるので、吉井川右岸の現津山市南部から中央(ちゆうおう)町東部、柵原(やなはら)町西部一帯に推定される。鎌倉末期には洞院家が領家職を所持していた。正和二年(一三一三)五月一九日、洞院公守は庄内榑田・今市・横山にあった田三町・畠二町を奈良春日社因明談義料所として寄進、一円不輸地で上分は毎年五貫文であった。なお当庄は延慶二年(一三〇九)より正和元年までに年貢三〇〇貫文余を上納していた(正和二年五月一九日「洞院公守家御教書写」・正中元年一二月日「供目代某下知状案」春日大社文書)。 長岡庄ながおかのしよう 滋賀県:坂田郡山東町長岡村長岡庄現山東町南部から中央部、現長浜市鳥羽上(とばかみ)町付近を含む一帯に比定される最勝(さいしよう)寺(跡地は現京都市左京区)領庄園。地頭は佐々木京極氏。文治二年(一一八六)四月八日の醍醐寺文書目録(醍醐雑事記)に「長岡庄」とみえ、山城醍醐寺円光(えんこう)院領柏原(かしわばら)庄と境相論を起こした際に下された久安六年(一一五〇)九月二〇日付の院宣が残っていたとあり、当庄の成立は一二世紀前半以前にさかのぼる。寛喜三年(一二三一)伊勢奉幣の費用負担を了承した諸庄のなかに庄名がみえ、最勝寺領であった(「民経記」同年一〇月八日条)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報