日本歴史地名大系 「長崎オランダ商館跡」の解説
長崎オランダ商館跡
ながさきおらんだしようかんあと
寛永一六年以後もオランダ貿易は変わらず、六―七月に来航してパンカド(糸割符)で白糸を売却し、ついで蘇木・香料・胡椒・砂糖・皮革・織物(西欧毛織物・中国絹織物や印度・ペルシア産織物など)などを売っていたが、慶安二年(一六四九)のオランダ船二隻による取引高は商品代銀七七五貫目余、丁銀・銀道具の銀五千三四〇貫目余、遣捨(出島の諸経費)銀九六〇貫目余となっており(通航一覧)、日本からの銀輸入額の大きさが知られる。明暦元年(一六五五)の糸割符廃止に伴い対日貿易は好調となり、万治元年(一六五八)・寛文四年(一六六四)および同六年より延宝元年(一六七三)までの間は一〇〇万グルデンを超える純益となった(ナホッド「十七世紀日蘭交渉史」)。延宝元年より市法貨物仕法が施行、オランダ人は「長崎奉行によってかれの意のままに評価される」貿易と認識していた。貞享二年(一六八五)定高貿易仕法によりオランダ船の貿易高を金五万両(銀で約三千四〇〇貫文)に制限され、糸割符が復活、金銀の海外流出を抑制するなど幕府の政策に左右された。なおオランダ船生糸の売高は定高の約三分一とすべきこととされ、それ以上の取引は認められなかった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報