白糸割符ともいう。江戸幕府によって輸入白糸(しろいと)(中国産の生糸)を統制した貿易仕法。それまでポルトガル船が日本貿易を独占し(南蛮貿易),多額の日本銀が流出していたが,徳川家康が将軍となって幕府を開くや,直ちに主要輸入品である白糸貿易の統制に乗りだし,1604年(慶長9)堺,京都,長崎の3都市の頭人クラスの町人を糸割符年寄に任命した。この年寄を中心に富裕な町人層が仲間を組織し(三ヵ所糸割符仲間という),白糸値段について糸割符年寄を中心にポルトガル商人と協議して決定した。糸割符仲間はその白糸を独占的に一括購入し,国内の糸商人や織屋その他貿易商人に売却した。その間購入価格と販売価格との差益(糸割符増銀)について,一定の高率利潤を確保し,仲間全員にそれぞれの持株に応じて分配した。このシステムが糸割符制度である。3ヵ所の都市の配分は題糸120丸が堺,100丸がそれぞれ京都,長崎と定められた。この題糸とは輸入生糸の総量320分の120が堺,320分の100がそれぞれ京都,長崎に案分される定めをいった。なお当初は白糸以外の諸貨物は自由売買にゆだねられていたが,白糸が主要輸入品であったことから,万事他の絹織物などが値段の標準とされていた。このように幕府は糸割符制度を利用して,長崎のポルトガル船貿易を長崎奉行(当初は長崎代官)の管理下におき,場合に応じて将軍や幕府の要人の必要とする貿易品を優先的に先買する特権を確保した。また一部例外的にイエズス会の教会分や,僅少ではあるがポルトガル商人の手もとにも白糸を保留していた。この糸割符制度で問題になるのは,白糸の販路が糸割符仲間によって短期間に保証されることは,ポルトガル商人も異存はなかったが,糸価の決定をめぐって価格を抑制されることは好まなかったので,この両者間に紛争が生じがちなことであった。09年のマードレ・デ・デウス号事件もその一つである。しかし幕府は11年強硬な態度で糸割符制度のもとでのポルトガル船との貿易を再開する一方,当時日本からの朱印船貿易を盛んにし,また中国船の来航を優遇し,オランダ船,イギリス船も来航して平戸に商館を設置するなど,ポルトガル船の貿易独占は打破されていった。
31-33年(寛永8-10)にかけて,糸割符制度に大改定が行われ,仲間の組織を強化し,江戸,大坂の有力町人が追加され,五ヵ所糸割符仲間となった。さらに博多など北九州の諸都市に若干の分国配分が認められ,従来先買を認められていた呉服師仲間に対しても現糸60丸(現糸配分とは1丸50斤であって,この場合3000斤の白糸の実数を配分すること)が配分されることになった。また1631年ポルトガル船の白糸輸入が減少してくると,長崎に来航する中国船の白糸を糸割符に従属させ,35年にはこれまで九州各地に来航していた中国船を長崎1港に限定し,全中国船の白糸を糸割符に従属させた。また平戸のオランダ船に対しても1633年平戸の白糸値段は長崎の糸割符価格に準ずべきことが定められ,ついで41年平戸のオランダ商館を長崎の出島に移し,その将来する白糸を糸割符に従属させた。1639年にはポルトガル船の長崎来航が禁止されたので,以後中国船とオランダ船の白糸のみが糸割符に従属した。1635年には五ヵ所糸割符仲間の都市間の配分が改定され,堺が題糸120丸,京,長崎,江戸がそれぞれ題糸100丸,大坂が題糸50丸,計題糸470丸となった。ところが55年(明暦1)糸価の高騰などの理由から糸割符制度が一時廃止されるが,その後の貿易仕法(相対(あいたい)貿易法,市法貿易法)にふつごうが多く,再び85年(貞享2)旧制の糸割符制度が復活した。糸割符の対象として従来の白糸に加えて,弁柄(ベンガラ)糸,黄糸・下糸と呼ばれる粗悪な生糸類をもその対象とするように改められ,また貿易の総額にも制限が加えられ(定高(さだめだか)貿易法),中国船6000貫目,オランダ船3000貫目,計9000貫目とし,それぞれの3分の1が生糸の輸入枠と定められた。ところが97年(元禄10)再び糸割符制度に大改定が加えられ,金,銀の流出を防止するため生糸の輸入量を抑制することとなり,五ヵ所糸割符仲間に対し現糸500丸(実数で2万5000斤)に限定された。都市間の配分も長崎が現糸150丸,堺,京都,江戸が現糸100丸,大坂現糸50丸に改められた。しかしこのとき幕府と関係の深かった呉服師仲間の配分は現糸1000丸に急増した(1710年にこの制度は廃止された)。なお18世紀の初頭より国内の生糸の増産が進められ,一方輸出品であった銀,銅の産出が減少してくると,長崎貿易の中心をなしていた糸割符制度も衰退の一途をたどった。
→長崎貿易
執筆者:中田 易直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸時代の中国産糸を主とする生糸の輸入制度。詳しくは白糸(しらいと)割符商法という。輸入白糸(生糸)を、幕府の指名業者である糸割符仲間が、年1回、その代表者(糸年寄)と外国商人との折衝で決められた固定価格で一括購入し、これを仲間内や幕府指定の特許商人に分売した。当時の外国人がパンカドpancado(ポルトガル語)またはパンカダpancada(スペイン語)とよんだものは、広くマニラなどでもみられた一括取引の意味で、糸割符制そのものではない。
糸割符制創設のいきさつ、目的、取引実態については、なお不明な点が多い。その起源として、1604年(慶長9)徳川家康が奉書を下して、当時輸入価額の主要部分を占めたポルトガル船舶載の白糸について、堺(さかい)、京、長崎の有力町人を糸年寄に定め、彼らの折衝による糸価決定まで、諸商人の長崎立入りを禁じたことがあげられる。しかし、それは単にポルトガルなど外国船の利益独占を排除することを目的とした貿易政策にすぎないのか、イエズス会をはじめとする教会勢力の抑制策であったか否かなど諸説があり、定説をみない。しかし鎖国形成の一環として、1631年(寛永8)江戸、大坂を加えた5か所の商人を糸割符仲間とし、また糸の配分を呉服師や博多(はかた)などの近国城下町にも広げるため、唐船にも制度を適用し、鎖国を機にオランダ船にも拡大した。しかし数百人の糸割符仲間の特権に対する、新興商人や鄭成功(ていせいこう)など売り手側の抵抗で、1655年(明暦1)にいったん廃止され、市法売買となった。1685年(貞享2)に復活され、幕末まで続いたが、18世紀に入ると国産の和糸が増加して生糸の輸入は衰退し、後期には名目だけのものとなった。
[中村 質]
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白糸割符とも。江戸時代,輸入生糸の貿易仕法。1604年(慶長9)幕府は堺・京都・長崎の有力商人に仲間(三カ所糸割符仲間)を組織させ,長崎に来航したポルトガル船からの主要な輸入品の白糸(中国産生糸)に対して,価格をつけ一括購入(ポルトガル語でパンカダpancada)させて,売買差益を一定の比率で仲間全員に分配することとした。この制度は幕府が直轄都市の商人に特権を付与し,また生糸の輸入価格決定の主導権を日本側が握ることで価格を抑制し,当時需要の高かった生糸の国内市価の安定をはかったものとみられる。その後制度は改正され,31~33年(寛永8~10)江戸と大坂を追加して五カ所糸割符仲間とし,さらに特定の呉服師と博多など北九州の諸都市の有力商人への配分(分国糸という)を認めた。制度の対象は当初ポルトガル船の生糸だけであったが,輸入量の減少とともに31年唐船,41年オランダ船にも適用した。55年(明暦元)制度は一時廃止,85年(貞享2)に復活し(定高(さだめだか)貿易法),以後も変遷をみた。しかし18世紀以降は和糸(国産生糸)の増産により輸入が漸減したため,制度は形骸化し幕末に至った。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…江戸時代,幕府より生糸貿易の特権を与えられた糸割符仲間が,随時幕府や関係機関の求めに応じて,糸割符の成立事情,幕府に対する貢献や幕府より与えられた諸特権,糸割符制度の変遷などについて報告したもの。糸割符制度の成立や内容を知る貴重な史料であるが,生糸貿易について見ると,糸割符仲間との関係や徳川家康以来の諸特権が強調され,それを維持しようとする主張が露骨で,その他の生糸貿易にはほとんどふれていない。…
…朱印船制度にもとづく東南アジア諸地域との相互交通の推進は,日本を中心とした公的通交秩序の形成を意図したものといえる。ポルトガルの長崎貿易に対しては京都,堺,長崎3ヵ所商人を主体とする糸割符制度を施行して生糸貿易の統制をはかるとともに,イスパニアに対しては江戸近辺への来航を促し,通商を求めた。一方,オランダ,イギリスに対しては軍需品貿易を通じ関係を強め,徳川政権確立への戦略的布石とした。…
…1685年(貞享2)糸割符の復活に際して,糸割符仲間の紛争が生じ,町人身分で堺町奉行や幕府の三奉行および老中に訴え,主張を通した,当時としては珍しい事件の記録。7巻。…
…これに対し国産の生糸を和糸と呼んで区別した。白糸はポルトガルの植民地マカオ周辺の中国の広東市場からポルトガル人が購入し,日本に輸出することで,約5割から10割の利益があがったが,1604年(慶長9)白糸に対し糸割符(いとわつぷ)制度を設けて,その利益を抑制する政策がとられた。なお輸入白糸以外に粗悪な生糸として,南方諸地域の黄糸,下糸などがあり,また弁柄糸(ベンガル糸)などもあったが,85年(貞享2)以降これらの生糸も糸割符制下に従属した。…
…淀屋の始祖で中之島の開拓で知られる与三郎常安の長子で,个庵もまた1622年(元和8)鳥羽屋彦七と連名で津村の葭島の新地開発を出願し,塩干魚・干鰯(ほしか)(魚肥)商の集居する靱(うつぼ)3町(新靱,新天満,海部堀川町)の発展の素地をつくった。また大坂の総年寄として31年(寛永8)従来,堺,京都,長崎に限定されていた糸割符(中国産生糸の輸入商グループ)の特権を大坂町人のために奔走して実現させた。さらに町人蔵元として諸藩の大坂廻米の販売を大規模に引き受け,そのため北浜の淀屋の店頭には米商人が群集して米市が立つようになったという。…
※「糸割符」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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