長野原村(読み)ながのはらむら

日本歴史地名大系 「長野原村」の解説

長野原村
ながのはらむら

[現在地名]長野原町長野原

村の中央を吾妻川が東流し、南北の境はともに一〇〇〇メートル級の尾根となる。南流する白砂しらすな川が吾妻川と落合う付近、吾妻川左岸の狭い段丘面に集落が街村状に発達、ほかに貝瀬かいせ火打花ひうちばなに集落がみられる。東は吾妻川左岸のはやし村、同右岸の横壁よこかべ村、西は同左岸の坪井つぼい村、同右岸の与喜屋よきや村。「加沢記」によると永禄六年(一五六三)長野原合戦があった。同年の第二次岩櫃いわびつ(現吾妻町)攻略戦では難所がんさわ(現同上)を避け、「幸隆御父子無双の勇士にて長野原にて御評定」とあり、雲林うんりん寺の住僧をもって和議を進めたこともあるが、同年一〇月岩櫃城は落ちたとある。同七年二月一七日、湯本善太夫に先約のとおり本領草津くさつ(現草津町)のほか「羽尾領内立石・長野等」の一七〇貫文が宛行われている(武田信玄判物写「加沢記」所収)。同年三月一三日の武田信玄書状写(同書所収)に「早々長野原辺に著陣(中略)急速出陣偏に可為忠信候」とあり、越後上杉勢の動きに備え武田勢の慌ただしい動きがうかがえる。天正一八年(一五九〇)一二月二一日には浦野儀見斎に前々のごとく長野原の五貫文が宛行われている(「真田信幸宛行状」浦野元男氏所蔵文書)


長野原村
ながのはらむら

[現在地名]飯田市長野原

東の天竜川、西のしん川の間に展開する標高四二〇メートルの台地上に位置し、遠州往還が村の東端を南北に走る。集落は台地上にあり、駄科だしなの南に続いている。東は天竜川を挟んで対岸南原みなばらに、南は時俣ときまた村、西は桐林きりばやし村に接する。

駄科村の分村で、元文六年(一七四一)編述の「信州伊奈郡郷村鑑」に「古来駄科村ノ新田ニテ、駄科一括リ、寛文十二年ノ御引渡シニ、駄科村ノ内長野原新田ト内立ニ分テ御記シ、是より二ケ村ニ分ル、古高下免弐百廿四石三斗八合六勺、外ニ廿三石弐升二合四勺、寛文十二年御引渡シ御帳之余分有之、後改高ニ入、(中略)今高二百五十九石三斗四升三合、此納米弐百四俵壱升四合」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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