阿斗桑市 (あとのくわのいち)
日本古代の市の一つ。〈阿斗〉に所在し,桑の木が植えられていたことから出た名称と考えられる。〈阿斗〉という地名は,古代には河内と大和にあったらしい。そこでこの市の比定地も,大阪府八尾市植松町,跡部本町付近や,奈良県磯城郡田原本町(旧,城下郡阿刀村)などの説がある。後者の交通上の重要性が高まったのは推古朝以後と考えられるので,敏達朝にみえるこの市の比定地としては前者が妥当と考えられる。前者は《和名抄》河内国渋川郡跡部郷の故地で,大和川,石川合流点と難波のちょうど中間に位置する交通上の要地であり,〈桑市村〉とも称されるごとく人家も多く,大連物部守屋の別業や百済から来た日羅(にちら)の居館もこの地にあったという。769年(神護景雲3)称徳女帝が行幸に際して竜華寺の西の川上に臨時の市を開き,〈河内市人〉を集めさせたのも,近くに阿斗桑市があったことに触発されてのことであり,〈河内市人〉の中には阿斗桑市の市人が多かったと考えられる。
執筆者:栄原 永遠男
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阿斗桑市
あとのくわのいち
日本古代の市。『日本書紀』敏達(びだつ)天皇12年是歳(このとし)条にみえる。海柘榴市(つばいち)の椿(つばき)、餌香市(えがのいち)の橘(たちばな)のごとく、桑の木が植えられていたところから出た名称とみられる。「阿斗」の地名は、古代では河内(かわち)と大和(やまと)にあるが、『和名抄(わみょうしょう)』にみえる河内国渋川(しぶかわ)郡跡部(あとべ)郷の比定地である現大阪府八尾(やお)市跡部本町付近にこの市があったとするのが妥当であろう。この地は、大和川、石川の合流点と難波(なにわ)との中間点にあたり、人家も多く、大連物部守屋(おおむらじもののべのもりや)の別業(なりどころ)(別荘)なども存在した交通上の要地であり、市の立地としてふさわしい。
[栄原永遠男]
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阿斗桑市【あとのくわいち】
古代の市。桑の木が植えられていたことによる名称と考えられる。《日本書紀》敏達天皇12年是歳条にみえ,外交的施設と思われる館(むろつみ)もあった。所在地はのちの河内国渋川(しぶかわ)郡跡部(あとべ)郷(《和名抄》)説,同大和国城下(しきのしも)郡阿刀村(現奈良県田原本町坂手付近)説などがある。
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世界大百科事典(旧版)内の阿斗桑市の言及
【市】より
…しかし,20世紀になると,新しい店舗が主要街路に沿ってつくられ,その比重が低下した。[ギルド][商人][職人][都市][広場]【坂本 勉】
【日本】
[古代]
《日本書紀》《万葉集》などには,8世紀以前の市として〈[餌香市](えがのいち)〉〈[阿斗桑市](あとくわのいち)〉〈[海柘榴市](つばいち)〉〈[軽市](かるのいち)〉などがみえる。このうち〈海柘榴市〉は上ッ道,山辺道と横大路の交点付近に,〈軽市〉は下ッ道と山田~雷~丈六の道との交点付近など主要交通路の結節点に位置し,飛鳥の倭京の北東と南西にあって,これと密接な関係にあったらしい。…
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