(読み)いち

精選版 日本国語大辞典 「市」の意味・読み・例文・類語

いち【市】

〘名〙
[一]
① 人が多く集まる所。原始社会古代社会で、高所大木の生えている神聖な場所を選び、物品交換、会合歌垣(うたがき)などを行なった。
古事記(712)下・歌謡大和の この高市(たけち)小高(こだか)る 伊知(イチ)の高処(つかさ)
② 特に物品の交換や売買を行なう所。市場。日を定めて定期的に開かれるものと、毎日定時的に開かれるものとがある。
万葉(8C後)七・一二六四「西の市(いち)にただ独り出でて眼並べず買ひてし絹の商(あき)じこりかも」
※大和(947‐957頃)一〇三「よき人々いちにいきてなむ色好むわざはしける」
③ (「とし(年)の市(いち)」の略) 特に一二月一七、一八日の浅草観音の市をいうことが多い。
※雑俳・柳多留‐五(1770)「市帰り大戸上げろとしょって居る」
市街。まち。
散木奇歌集(1128頃)雑「数ならぬ我が身はいちの溝なれや行きかふ人の越えぬなければ」
[二] 「いちこ(市子)①」の略。
※雑俳・西国船(1702)「いただいて・鈴より市の笑ひ㒵(がお)

し【市】

〘名〙
① まち。市街。人の多く集まる所。
史記抄(1477)一五「市令とは市の公事をはからう者ぞ」 〔書経‐説命〕
普通地方公共団体の一つ。人口五万以上で、中心市街地の戸数が全戸数の六割以上であること、商工業その他都市的企業に従事する者の数が全人口の六割以上であること、また、都道府県の条例で定める都市的施設その他の都市的要件を備えていることなどの条件を満たしていなければならない。議決機関として市議会、執行機関として市長を置く。
③ いち。いちば。〔易経‐繋辞下〕

いち‐・す【市】

〘自サ変〙 市に店を出して、商いをする。商売する。
※宇津保(970‐999頃)藤原の君「その物をたくはへて、いちしあきなはばこそ、かしこからめ」

ち【市】

〘語素〙 市(いち)の意を表わす。あるいは「いち」の略か。「たけち(高市)」「あゆち(年魚市)」「つばいち(海柘榴市)」など。

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デジタル大辞泉 「市」の意味・読み・例文・類語

し【市】[漢字項目]

[音](漢) [訓]いち
学習漢字]2年
〈シ〉
物を売り買いする所。いち。「市況市場市販
人の集まるにぎやかな所。まち。「市街市井市中城市都市坊市
行政区画の一。「市営市長市民市立
〈いち〉「市場朝市魚市闇市やみいち
[名のり]ち・なが・まち

いち【市】

毎日、または一定の日に物を持ち寄り売買・交換すること。また、その場所。市場。「が立つ」「朝顔
多くの人が集まる所。原始社会や古代社会では、歌垣うたがき・祭祀・会合・物品交換などに用いられた場所。
市街。町。
「野を越え山越え、…シラクスの―にやって来た」〈太宰・走れメロス〉
[類語]市場河岸バザールマーケット取引所朝市競り市年の市草市蚤の市バザーフリーマーケットガレージセール

し【市】

地方公共団体の一。人口5万以上で、中心市街地の戸数が全戸数の6割以上であること、各都道府県の条例で定める都市としての施設その他の要件をそなえているもの、などの条件を満たしていなくてはならない。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「市」の意味・わかりやすい解説


いち

決まった期日に、特定の場所で、売り手・買い手がお互いに出向いて物資の交換を行う交易の場。

 交易は、本来、共同体内部に根ざした活動というよりは、共同体間の、それもしばしば文化的同質性すら共有しない共同体間の活動であった。コンゴ森林の狩猟採集民とサバナの農耕民の間でみられるような、生業や文化に違いのある集団が、無人の中立地帯や互いの共同体の周縁部で、無言で、あるいは互いに顔をあわせないようにして物資をやりとりするという「沈黙交易」のような形態に、これははっきり現れている。古代国家や西アフリカの伝統的王国にみられた「交易港」やエンポリウムのような制度も、同様な交易の場の「周縁性」の実例である。こうした「周縁性」は、市という表現がより正確に当てはまるいわゆる「定期市」のような制度にも、市のもつ空間的・時間的非日常性として形をとどめている。ナイジェリアのティブの人々の間にみられる5日ごとの市は、市の所有者たちが管理する強力な魔術によってその平和が維持される一種の聖域であり、紛争中の集団にとっての中立の交渉場ともなっている。西アフリカはこうした市の制度をよく発達させていることで知られている。たとえば、ヨルバの社会では、輪環制という市の制度があり、約10キロメートル間隔でほぼ環状に配置された七つの地点で市が順繰りに開かれてゆく。7日で一巡し1日の市なし日が入るので、各地点では8日に1回ずつ市が立つことになる。こうした市の周期は、人々にとって一種のカレンダーの役割もしている。

 市が経済制度であることは指摘するまでもないが、そこに同時にみられる社会的、政治的、宗教的な側面も軽視するわけにはいかない。情報交換の場、娯楽を伴う祭礼的な機会を提供し、しばしば紛争解決といった司法的活動や宗教行事とも結び付く、といったぐあいに、市は多数の人々の集結が必要とされるほとんどあらゆる目的と結び付いた多機能的制度である。さらに、市の制度がみられる多くの社会において、市で取引される物資がかならずしも生活必需品目ではない、市での価格が人々の生産活動の指針とはなっていない、売り手も買い手も市での活動に生活の大部分を頼っているわけではない、といった一連の事実が指摘されている。経済的な面では、市はむしろ周辺的な役割しか演じていないともいえるのである。もちろん、市が演じている役割は、個々の具体的な事例に即して検討されねばならぬことはいうまでもない。日本の市についても、中世以降、経済的な役割が顕著であるとはいえ、古代の市については起源の問題とも絡めて祭礼との結び付きが論ぜられることが多い。市をマチとよぶ地方は多いが、マチは語源的には祭礼と同義であるともいう。近代以降の市の衰退と絡めて、市を、経済的には市場原理が中心的な役割を占める以前の経済に特徴的な制度であるということもできよう。

[濱本 満]

日本


 『日本書紀』によると、5世紀には大和(やまと)(奈良県)に軽市(かるのいち)、河内(かわち)(大阪府)に餌香市(えがのいち)、6世紀に入って大和に海石榴(つばき)市、阿斗桑市(あとのくわのいち)などが開かれていたことが判明する。これらの市はおもに各地方の氏族共同体、あるいはその首長たちの間の物々交換のため開かれたものであろう。大化改新後、律令(りつりょう)制時代に入ると、市は唐の制度に倣って関市令(かんしりょう)に基づいて平城京、平安京内にそれぞれ官営の東西市が設けられるようになったが、藤原京にも設けられたことが伝えられている。これらはおもに官衙(かんが)、貴族、社寺など支配階級の余剰物資の放出、必要物資の調達などの目的で開かれたが、東西の市司(いちのつかさ)の管理下に置かれ、籍帳(せきちょう)に登録された市人が肆(いちくら)で、指定された物資の販売に従事していた。市は正午に開かれ、日没に太鼓を三度鳴らして閉じる習わしであった。これら東西市には人々が群集したので、見せしめに盗犯などの処刑が行われたり、市の聖(いちのひじり)とよばれた空也上人(くうやしょうにん)など僧侶(そうりょ)たちの説教の場でもあった。

 平安時代には地方にも多くの市が開かれるようになったが、そこでは中央官衙に貢納するための調庸(ちょうよう)物、交易雑物(こうえきぞうもつ)、あるいは荘園(しょうえん)領主に納める年貢、公事(くじ)物の交易、調達が行われていた。一方、この時代には鋳物師(いもじ)、細工人ら各種の手工業者たちが自己の製品・米・衣料など日常消費物資を担ぎ、販売のため廻(かい)国するようになるが、地方港津などに開かれた市は彼らのかっこうの取引の場であった。このように交換が発達してくると、地方の市は干支(えと)にちなんだ特定の日に開かれる定期市の性格を帯びるようになり、それらは子市(ねのいち)、午(うま)市、辰(たつ)市、酉(とり)市などとよばれ、地名として今日まで残るものも現れた。

 平安末期から鎌倉時代にかけて、稲作を中心とした農業生産力の向上、手工業の発達などに象徴される社会的分業の進展、日宋(にっそう)貿易による唐物(からもの)・唐銭(とうせん)・宋銭などの大量の輸入に基づいて、商品貨幣経済がいっそう発達すると、市は全国の荘園、公領内に成立するようになる。それらの多くは一定の日に月三度、たとえば2日、12日、22日に開かれる、いわゆる三斎市(さんさいいち)で、地方の国府(こくふ)、社寺門前、地頭館(じとうやかた)や荘園政所(まんどころ)の周辺、宿駅、港津など交通の要地に開設された。市での交易は当初仮小屋で行われたが、商人はしだいに市に定住するようになり、取引はいわゆる市場在家(いちばざいけ)で営まれる例が増えていった。市での交換が繁(しげ)くなり、市場在家の数も増えると、国司、荘園領主、地頭らは代官、目代(もくだい)、奉行(ぶぎょう)を置いて、その管理や市場税の徴収にあたらせ、市を自己の新しい財源とみなして支配を強化する者も現れた。この時代の定期市での交換は、荘園領主などへの貢納物の調達、代銭納(だいせんのう)のための現物年貢(米や絹布など)の販売換貨、地方社寺、在地領主らの需給のための交換、さらには名主(みょうしゅ)・作人(さくにん)や手工業者など非農業民の広範な参加が大きな特徴をなしていた。また、市が荘園村落や在地領主の領域を中心とした地域経済にとって不可欠の役割を果たすようになることも、この時代の市の新しい歴史的な機能といえよう。

 南北朝から室町時代には、国内における分業のいっそうの発展、日明(にちみん)・日朝(にっちょう)貿易の展開などを背景にして、市はいよいよ普及し、月六度も開かれる六斎市さえ登場し、安芸(あき)国沼田荘(ぬたのしょう)地頭小早川(こばやかわ)氏のように、領内市に禁制(きんぜい)を発布して市場の支配権の確保、市場商人と武士との分離を試みる事例も現れた。そして市場内での乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)、喧嘩口論(けんかこうろん)を禁止し、また市日に集まった商人からの債務取り立てを禁止することを内容とした市場法が各地の領主によって発布されるようになった。

 室町から戦国時代には、各種の市が全国的に普及する一方、公家(くげ)、大社寺などを本所(ほんじょ)にいただく座商人が、市の一定の販売座席を占め、特定商品の独占的な取引を行う、いわゆる特権的な市座商人が現れたが、戦国大名は城下町の建設、領国内市場振興のため多くの商人を集める必要に迫られると、城下町や六斎市などにおける座特権を否定し、自由営業を保証する、いわゆる楽市(らくいち)・楽座(らくざ)令を発布したため、市における座商人の特権はしだいに後退していった。

 中世では時代とともに都市の成立、発展が進行したが、鎌倉・室町時代の鎌倉や奈良、戦国時代の山口のように、店舗商業発展のかたわら定期的に開かれる市における取引も並行的に存続したのであった。また、京都のような大消費都市と西国の生産地とを結節する中継港津であった山城(やましろ)国(京都府)淀魚市(よどのうおいち)には、すでに鎌倉時代から塩などの海産物の卸売市場が、また京都では少なくとも室町時代から米穀の卸売を業とする米市場が成立していた。

 江戸時代には、畿内(きない)地方ではいわゆる在郷町(ざいごうまち)の成立、城下町の建設につれて六斎市など定期市は衰滅の傾向をたどったが、東国など都市の未発達な地方では、六斎市が交換の中心をなしていた例が多い。また、江戸、大坂、京都などの大都市では、日常的な需要の大きい米穀、青物、海産物など消費物資の大量取引を行う卸売市場が成立し、定着した。江戸の神田(かんだ)青物市、大坂の天満(てんま)青物市や雑喉場(ざこば)市場はその典型といえる。

 地方でも各地の特産物、絹、繭、紙、馬、牛などの取引を目的とした特殊市、さらには大市(おおいち)、歳市(としのいち)が特定の日に開かれ、それらのうち近代まで続いたものも少なくない。

[佐々木銀弥]

ヨーロッパ

古典古代の市

西洋の市は、南欧では古典古代に始まる。ギリシアのポリスの中心地が都市化したとき、神殿と区別されて市場広場アゴラが設けられた。そこは商品交換の場であるとともに、社交や政治の場でもあったが、しだいに市場の性格が強くなった。ただし商業は寄留外人の手で行われていた。ローマにおいても同様の市場広場があり、フォルムとよばれた。そこでは神殿との区別があまり明らかでないうえに、軍事的示威の広場の意味も兼ね備えていた。とくに首都ローマは十数個のフォルムをもち、市が専門化していた。

 南欧が古代において地中海の沿海文化のかなめとして市を発展させたのに対し、中欧や北西欧は原則として市を知らぬ純農村地帯であった。ただしフランスを中心とするローマ帝国の勢力の圏内においては、各地にローマ都市が建設され、その中心にフォルムが存在した。だが民族大移動の混乱期を経て、南欧やその他のローマ都市は衰退していき、中欧、北西欧に新しい都市化の動きが始まる。その一部はローマ都市の遺跡を土台にしたが、ほかの多数は新しく建設されたものである。南欧型の古代市場が周辺農村に君臨するポリス成員家族の相互取引の場であり、直接生産者である奴隷や隷属民は疎外されていたのに対し、中欧、北西欧型の中世市場は封建領主制の下という制約はあるにせよ、直接生産者の農奴や隷農、さらに農村から分離、集住した都市手工業者の相互取引の場となった。大陸内部の至る所に稠密(ちゅうみつ)に市場が分布し、内陸文化の時代となる。この時代は初期、中期、後期に大分される。

[寺尾 誠]

内陸文化時代の市

初期には、ローマ都市と一部連続しつつ、修道院や封建諸侯の所領交易が市を成立せしめ、これと市民や農民の取引がしだいに拮抗(きっこう)していく。市内に教会や城館と市場広場の二元性がみられる。中期になると、農奴解放や内国植民を背景に広範な都市市場が人為的に建設される。それはおもに農村の傍らに領主と請負人の協働で計画的につくられた。都市の手工業者、商人と農村の住民との間の取引が盛んとなり、生産者同士の取引の場として市が立った。ただし、それは封建諸侯に保護された、都市住民に有利な特権の市場であった。

 市民の日用必需品のための日市と、市民と周辺農民たちとのさまざまな取引の場とが区別され、後者は週市と名づけられた。週に一度ないし数度にわたり、定められた曜日の時間内に市場広場やそれに類する場所に市が開かれた。市民と周辺の農民はそこにおいてのみ取引が許されたが、とくに後者にとって、それは自らの好む所で取引する自由がなく、特定の都市の市場に赴いて売買を行わざるをえぬ市場強制を意味した。都市から特定距離内にある農村に妥当する市場強制は、市場以外の取引を禁ずる禁制を伴い、その距離の範囲は禁制圏とよばれた。この市場の強制と禁制はよそ者にも適用され、週市は都市を求心点とする閉鎖的な都市経済の象徴となった。都市はこの制度を利用し、公定価格制やギルドによる生産統制などの経済政策を実施し、市民の経済的利益を守った。なおこの閉鎖的な週市を補うのが、開放的な歳市である。年に何度か特定の日時(教会の祭日など)に開かれる市だが、そこには周辺の農民たちだけでなく、近隣、遠隔の諸都市の商人たちも参加する。地元の特産物が販売されるとともに、さまざまな地方のそれも持ち込まれ取引された。歳市を通じて閉鎖的な週市市場圏は、より広い市場圏につながっていった。その市場圏は、地方的な有力都市の大歳市(メッセMesse)を中心とするもの、その相互のつながりのうちに形成される国内的、国際的なものへと広がる。国際的なものでは、ブリュージュ(ブリュッヘ)、アンベルス(アントウェルペン)、それにシャンパーニュのメッセなどが有名である。それらの市場網を通じて、ドイツ・ハンザやイギリス冒険商人などの団体商業が活躍したのである。

 さて内陸文化時代の後期には、都市から農村に市の重心が移って行く。中世後期の黒死病(ペスト)による人口の激減、農業不況と都市手工業者の賃金上昇、それらを背景に手工業の技術革新が始まる。農村の低賃金に目をつけ、水力利用の水車場で、労働節約の量産方式が本格的となる。繊維、金属(鉱山)などの基幹産業において、工業立地が、古い都市から農村(森林、丘陵地帯)へと重心を移して行く。それまで第一次の原料を生産し、都市に供給していた農村が、第二次の半製品や完成品を生産し始める。ここにさまざまな手工業製品が農村内部で取引されることとなる。それを軸に日用必需品の売買も発達し、都市の市と同じような日市、週市、歳市の制度が農村にも許された。ただし、その枠組みが厳密に守られたのではない。一方では従来農村に限られた範囲で認められていた店舗販売(居酒屋、旅籠(はたご)での)が、その制約を超えた取引関係に発展する。他方では家から家、村から村へと練り歩く行商が盛んとなる。とくに後者は伝統的な市場制度に対する重大な挑戦であった。それは、中世の公的制度的な市場取引に対し、純粋な市場取引である。

[寺尾 誠]

新しい市場関係へ

この両者の矛盾は、中世末から近世にかけて都市と農村の市場抗争として現れた。古典古代の遺産を受け継いだ南欧では、都市が封建貴族の拠点となり、農村の市場取引は強く妨げられた。封建諸侯の地方的分裂のため多数の都市群が成立したドイツなど中欧の国々では、市場関係が都市に有利な形で固定化されがちであった。それは東欧においてもっとも著しい。中央集権的王政により封建的分裂が抑えられていたイギリスなど北西欧の国々では、中世の都市市場がそれほど強力な勢力関係とならず、農村の自由な市場が拡充していく。

 以上のような国民的、地域的な偏差を伴いつつ、伝統的な都市の市は、市民革命、産業革命とともに、その重要性を失い、店舗を中心とする小売り―卸売りの市場関係に席を譲る。ただし西洋の今日の都市でも、週市や歳市が一部の機能を残している。とくにライプツィヒやハノーバーのメッセは国際見本市として有名である。

[寺尾 誠]

中国

独自の発展を遂げた中国の市場網

中国は近代の工業化では遅れが目だつものの、伝統社会の内面で発達した旧秩序、旧組織の到達水準からみると、はるかに他の地域世界のそれを超えるものがあった。ことに旧型の市場網は、血縁や行政の組織と並んで独自の持続発展を遂げたので、中国社会の体質や、近代への適応の成否を見極めるうえでだいじなポイントをなす。

[斯波義信]

市場網のルーツ

中国の旧市場網のルーツは、殷(いん)・周の都市国家時代にさかのぼり、また文明のサイズや生態条件に即して考える必要がある。地文単位としての中国は、広大で生産性の高い大農業地を占め、しかも四通八達した河川交通網に恵まれている。南から珠江(しゅこう/チューチヤン)、長江(ちょうこう/チャンチヤン)、淮河(わいが/ホワイホー)そして黄河(こうが/ホワンホー)と続く河川網は、相互に連絡しつつ黄土台地に突き当たって遮られるが、黄土文明を発祥させた邑(ゆう)とよばれる諸都市は、この河川交通網が断たれ、内陸アジアから東に伸びた陸上交通網と接合する細長い地帯に立地して散布していた。

 殷・周約1000年の都市国家の時代に、人々の定住拠点であった邑は、こうした交通の要所に建てられ、農産物や金属、繊維、木材、塩のほか、遠い海陸の貿易品や貢納品、香料、薬物が集散して、王侯・貴族の財源となった。邑には市里(しり)とよぶ市があり、集会、祭礼、交換、娯楽の場であった。中国の都市国家の歴史は他文明より短く、交換の規模も地中海世界には及ばなかったが、春秋時代末より鉄器が登場し、氏族制が急速に解体すると、市里を通じての流通や富の蓄積は加速され、社会の分業も促進されてここに領土国家の統合が一挙になり、秦(しん)・漢の大帝国が生まれた。

 紀元2年に、県1587、郷(きょう)6622、亭(てい)2万9635が存在したが、かつて無数にあった邑は、ほぼ県に再編されたとみられる。政府は国内の商工業を独占的に統制するため、各県城の一角に市を公設し、商店を業種別に並べ、営業時間を定め、商人を市籍に登記し、市租を徴し、価格の報告を義務づけた。市の価格の掌握は、全国規模の物価調整、量刑の公平な執行に不可欠であった。また市の統制と同じ趣旨で、国境や要所に市(関市(かんし)、互市(ごし))を設けた。六朝(りくちょう)時代になると、辺地や県境に集村が広がり始め、農村部に非公認の草市(そうし)=村市が現れるが、市を県城に公設して厳格に統制する政府の基本姿勢は唐なかばまで続いた。

[斯波義信]

商業革命と市場網の変化

唐末から宋(そう)代に商業革命が起こると、漢以来の市の制度が崩壊し、後の明(みん)・清(しん)時代の市場組織の原型が現れてきた。生産の発達、商業、貨幣経済の浸透を背景に両税法が導入されるに伴い、まず政府の商工統制が弛緩(しかん)し、財源の確保、財政の運用に商業を積極的に利用するようになった。市を県城以上の都市に限定してさまざまな統制を加える制度は廃れ、都市の商工業が自立化する一方で、農村部に半都市=鎮(ちん)や村市が無数に発生してきた。

 こうして十数村が一ブロックとなって一村市に帰属し、数個の村市がより広いブロックをつくって一鎮に、さらに数個の鎮が一県城に帰属するというピラミッド状の成層組織ができた。清末にはこの基底の村市数が2万7000余となり、開港場周辺や先進地では近代化の始動で消滅していったが、1960年代、自留地とともに約3万~4万の旧村市が復活したから、旧市場網はまだ根強く残っている。村市の平均的市場圏は約50キロメートル平方、人口7000~8000、村市間隔8キロメートル弱である。村民は市日にあわせて所属の村市のほか、隣接の村市に毎日出かけ、一方、県城や鎮に拠(よ)る商人、職人は鎮や村市を巡回したので、零細で散漫な村民の需要や購買力が組織されて、県城以上の国内商業と接合された。鎮や村市の商圏は、農民の社交・宗教上の交渉圏でもあったから、行政村の網の目とは独立した、「近隣性」を原理とする実質的な基層のコミュニティが生まれた。

 宋から清まで県城以上の都市化は、行政、軍事支配や科挙による一元支配の目的で(県数の固定にみられるように)、総枠が抑えられていたものの、県以下の都市ではむしろ充実して都鄙(とひ)間の強い均衡が生じ、県や鎮に拠る郷紳(きょうしん)など社会の中間階層がここに育ち、一方、農村部も生計の半数以上を商業経済に依存するという、半自給・半開放的体質に転化したのである。

[斯波義信]

市の民俗

市は特定の日に人と物資とが集散する場のことであるから、それに関する民俗もまた豊富である。

 まず市の開かれる時期のうえからみると、毎年ある定まった日に開かれるものと、月3回とか6回とか日を決めて開かれるものとがある。前者は暮の市、年の市とか盆市とかよばれることが多い。「盆・暮」が重んじられるのは、祖霊信仰のうえでの重要な季節ということから生じている。都会地では暮の市に正月行事に必要な諸品を買う習慣で、とくに破魔弓(はまゆみ)や羽子板(はごいた)を買うという所があり、東京・浅草の「羽子板市」などが有名である。島根県の仁多郡奥出雲(おくいずも)町のように、暮の市を「鰤市(ぶりいち)」とよんで正月に欠かせない鰤を米1俵と交換するのを習いとしていた所もある。暮の市の開かれる日は全国的にみて12月下旬に集中し、とくに23、24日から大みそかまでのうち、2~3日にわたるのが多い。盆市は東京では「草市(くさいち)」とよばれたが、茣蓙(ござ)、盆花、ホオズキなど盆行事に必要な品を農村から持ち込んで路上で売った光景からこうよんだのである。岩手県高田(陸前高田市)の付近の農村では、7月12日高田の盆市に出かける習慣があり、留守居の子供たちはその市からの帰宅を、「町人迎え」といって多大の期待をかけたという。

 毎月3回、6回の市という例も全国にわたって広くみられる。東京都八王子市のように大きな市街地では、日を変えて町々が順に市を開くという例もあったが、もっと広い範囲に散在している小都市で、日を追って次々と開かれるという例が多く、月6回開かれるものを「六斎市(ろくさいいち)」とよび、A町で「一、六の市」、B町で「二、七の市」というように、その地域で毎日、どこかの町で市が開かれるという仕組みになっていた所もよく見受ける。

 各地の市のなかには、特定の商品を名ざしてよばれるものもあり、「雛市(ひないち)」、「だるま市」、「べったら市」(大根の浅漬けをべったら漬けと称して、東京・大伝馬町で10月19日の夜売り出した)などがそれであるが、東京・世田谷の「ぼろ市」なども、いまはあらゆる品物を並べるが、もと、古着を近在の人々が持ち寄り売買したところからきたものである。

 古くから伝わる市では、物々交換の形で行われるものもあった。長崎県早岐(はいき)(佐世保(させぼ)市)の海岸の道路で、5月の「7、8、9の日」3日間ずつ合計9日間開かれる市では、海側に水産物を持ってきた離島の人々と、陸側に農産物を持ってきた農村の人々が陣取って、「かえましょ、かえましょ」の呼び声をあげて取引する。大分市の坂ノ市(さかのいち)の万弘寺の市は、5月18日に開かれる盛大な市であるが、その片隅で開かれるささやかな市では、海村からきた婦人たちと、山村からきた男たちとの間で、互いに相手方の生産物をけなして思う存分悪態をつきながら取引する。これらは古い市交易のおもかげを残したものということができる。

 社寺の縁日や祭礼に際して市の開かれる例も多いが、総じて市の開設は単なる人間業(わざ)でない神秘的な霊力に基づくと考えていたらしいふしがあり、古来、虹(にじ)の立つ所に市を立てたとか、市人に雨乞(あまご)いを祈らせたとか伝え、秋田県浅舞(あさまい)(横手(よこて)市)の市のように、天から大石が降ったので、そこを市の場所としたとの伝えをもつ所もある。信州戸隠(とがくし)付近では、市に姥(うば)が現れるとの伝承がある。山姥が商品を買ってくれた店は、知らず知らず客足がついて売上げが多いという。青森県八戸(はちのへ)でツメノイチというのは年の暮れの市であるが、行けば親に似た顔の人と出会うと言い伝え、鹿児島県大隅(おおすみ)の肝付(きもつき)町高山(こうやま)地区、大崎(おおさき)町あたりでは、市にきた近村の人々が町家の一室を借りて新精霊(しょうりょう)迎えをしたという。イチコといえば土地によっては口寄せをする巫女(みこ)のことであり、イチは古くから神に仕える女性のことであったというあたりも、市のもつ神秘性と深い関係があろう。

[萩原龍夫]

『豊田武著『増訂 中世日本商業史の研究』(1944・岩波書店)』『脇田晴子著『日本中世商業発達史の研究』(1969・御茶の水書房)』『北見俊夫著『民俗民芸叢書56 市と行商の民俗』(1970・岩崎美術社)』『大塚久雄著『欧州経済史』(1973・岩波書店)』『寺尾誠著『中世経済史』(1978・慶応通信)』『G. William SkinnerThe City in Late Imperial China (1977, Stanford University Press)』


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百科事典マイペディア 「市」の意味・わかりやすい解説

市【いち】

物資交換の場所で市場(市庭)ともいう。日本で市の制度が発達するのは律令制下で,平城京・平安京などに常設官営市場たる東市(ひがしのいち)・西市が設置された。律令国家崩壊後はこれに代わって都には棚に交換物を展示した店(たな)が発生,地方にも交通上の要地や門前町などに,10日に一度の三斎市(さんさいいち)など定期的な市が発達した。中世後期,商品経済の発展に伴い,六斎市・九斎市などと次第に常設的な市に移行,市の権利も一部はの商人が独占したが,戦国大名の中には城下町の発展のために市を解放して楽市(らくいち)とするものもあった。近世の各都市では全面的に店舗営業が展開し,定期的な市は縁日(えんにち)などに限られる一方,大都市では米市場・魚市場などの専門的な卸売市場が発達した。
→関連項目阿斗桑市市場町大宮小川市加納市鎌倉時代鹿田荘市場四宮河原放生津六斎市

市【し】

市町村

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日本歴史地名大系 「市」の解説


つばいち

[現在地名]美東町大字赤 鍔市

あかの南東にある集落。青景あおかげ(現秋芳町)から絵堂の銭屋えどうのぜにやに至る青景街道と南北に通る瀬戸崎せとざき街道が交差する地にあたり、近世以降赤村の中心集落となった。

大内氏の時代、市が立ったと思われるが、慶長一五年(一六一〇)の検地帳には記載がない。

天保二年(一八三一)七月二六日、三田尻宰判内で発生した百姓一揆が鎮静しかけた頃、当地の畔頭勝五郎は、一揆の決行を決意し、赤村村内の各地に連絡し、八月二〇日の夕方、赤郷あか八幡宮の鐘をつき、美祢郡における天保の大一揆が発生した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「市」の意味・わかりやすい解説


いち
market

市場ともいう。一定の場所で物資の交換や売買をすること,およびその場所。人類の経済生活において,最初は生活必需品の物々交換であったが,生産物の多様化,商人の出現,貨幣経済の発達に応じて市も変化していった。市は,人の多く集る交通の要地に立ち,その開催は初めは一定していなかったが,次第に定期的になった。日本では,古くは祭礼や歌垣のときに市が立ったらしい。大化改新後,唐制にならって藤原京に東西両市が設置されて以来,平城京,平安京にも官設の市場が設けられた。平安時代には,二日市から十日市の月3回の定期市である三斎市 (さんさいいち) が開かれており,全国各地に地名として残っている。鎌倉・室町時代になると手工業生産物と農産物の取引がますます盛んになり,1の日と6の日,2の日と7の日などというように,5日目ごとに月6回開かれる六斎市 (ろくさいいち) が増加した。寺社や荘園領主は,これらの市を保護し,開催日を決定し,市座を設けて市の監督統制を行なった。しかし応仁の乱後,戦国大名は城下町の繁栄のため,封鎖的市場を,自由な商業活動が認められる楽市・楽座へ開放する政策を進めた。また,商品取引量の増加に伴い,取扱物資が雑多なものから,特定の物資を取扱う市場が発生し,生産者間の取引から,専門的商人の取引へと変化した。江戸時代になると,問屋,仲買の専門商人が現れ,せり,入札などの競争取引が行われるようになり,江戸日本橋の魚市場,神田の青物市場,大坂堂島の米市場などは卸売市場として発展した。しかし,地方都市の定期市は,常設小売店舗の発達によって次第に縮小した。しかし今日でも,正月の初市や植木市,酉の市のように小規模な市が各地で行われている。また市では守護神として厳島神社の祭神であるイチキシマヒメノミコトや恵比須大黒が祀られている例が多い (→市神 ) 。



shi; shih

中国,古代都市内の一定の商業地区。漢から唐にかけて長安,洛陽などの大都市には2市があったが,多くは1市であった。さらにこの中が,肉行 (肉屋の町) ,銀行 (金銀細工屋の町) のように,行 (こう) と呼ばれる同業商店町に分れていた。市は正午に開き,日没時に閉じる定めで,商人は場所と時間の両面で国家の強い規制を受けていた。しかし中唐以後,農村に草市と呼ばれる小規模な交易の場が発達してくると同時に,市以外にも商店が開かれ,夜間営業の禁令もくずれ,市という語は商店の立並ぶ繁華街をさすにすぎなくなった。


地方制度」のページをご覧ください。

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世界大百科事典 第2版 「市」の意味・わかりやすい解説

いち【市】

交易・売買取引のための会同場所。市場(いちば)ともいう。いろいろな形態の市が,古代から世界のほとんどの社会に認められる。K.ポランニーによれば,人間社会の歴史全体からみると,生産と分配の過程には,三つの類型の社会制度が存在しており,古代あるいは未開の社会から現代諸社会まで,それらが単一にあるいは複合しながら経済過程の機構をつくってきた。それらは,(1)互酬reciprocity 諸社会集団が特定のパターンに従って相互に贈与しあう,(2)再分配redistribution 族長・王など,その社会の権力の中心にものが集まり,それから再び成員にもたらされる,(3)交換exchange ものとものとの等価性が当事者間で了解されるに十分なだけの安定した価値体系が成立しているもとで,個人間・集団間に交わされる財・サービス等の往復運動,の3類型であり,それぞれの類型は社会構造と密接に連関をもって存在している。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「市」の解説


いち

物資や情報の交換取引が行われる場。大化の改新以前から河内国餌香市(えがのいち),大和国海石榴市(つばいち),同国阿斗桑市(あとのくわのいち)などが開かれていた。大化の改新以後,律令制のもとに平城京・平安京に東西市がおかれ,各地の国府でも市が開かれた。平安末期には月3回の定期市(三斎市)が開かれるようになり,鎌倉時代には社寺の門前,領主の居館周辺,宿駅・港津などにもみられるようになった。南北朝期には常陸国府市のように月6回開かれる六斎市が,三斎市と並行して発生。戦国期には諸国の農村にも広がった。戦国大名は独占的な市座を楽市令によって排し,市の発展を促した。江戸時代にも東国では六斎市が開かれたが,城下町などの都市の発展とともに常設店舗が発達し,一般に市は衰退。近世には江戸・大坂・京都などの大都市に米穀・青物・海産物などの大規模な卸売市場が発達した。新年の必要品などを扱う年の市や,門前・境内で開かれる祭礼市は今日まで続いている。

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旺文社世界史事典 三訂版 「市」の解説


中国の物資交易の機関・市場
古くからあったが,戦国時代以来唐までは城郭内の1区画を特に市に指定し,商店の営業を許可した。城外の市を草市 (そうし) と呼ぶ。商店の税は市租として有力な税源であった。唐の長安の東市・西市や洛陽の南市・北市が有名。市には行 (こう) が設けられ,同種の商店が1か所に集まっていた。市は正午に鼓を打って開かれ,日没前に鉦 (かね) を合図に閉じられた。唐中期以降,経済発展に伴い,市の制度はしだいにゆるみ,商店は市の区域外,つまり他の坊にも進出した。宋代に坊制が廃されると,商店は街頭にも現れ,夜間営業の禁も廃止された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「市」の解説


いち

物資の交換・売買をする所
古くは軽市 (かるのいち) などがあり,律令時代の藤原・平城・平安諸京には官設の東西市があった。鎌倉〜室町時代には寺社門前や交通要地に定期市が開かれ,しだいに市日も増し(三斎市・六斎市など),常設の店もできた。商人は荘園領主・守護大名らの保護のもとで市座を設け販売を独占し,また数日ないし数週間にわたる長期の大市も開かれるようになった。戦国大名は城下町繁栄のため市座を廃し楽市とした。江戸時代には,専門商品販売の大市場と店商業の発達のため,定期市は補助的なものとなった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「市」の解説

市(し)

中国で交易場所およびその取引を市と呼んだ。秦漢時代には,都市内の商業は国家の市場管理制度(市制)により場所,時間,営業にわたり厳格な統制を受けた。唐半ばから宋以後になると,商業・都市の発達によって市制はくずれ,また地方村落や交通路上では交易場が発達してそのなかから小都会ないし市場地をさす鎮・市がおこった。大都市内の市も,特定商品の取引およびその場所を示すようになった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「市」の解説

いち

お市の方(おいちのかた)

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世界大百科事典内のの言及

【アンシャン・レジーム】より

…最初にこのように名づけたのは,新しいフランスの誕生に歓喜した革命の世代であり,彼らは,先立つ過去のいっさいを〈旧体制〉の名の下に断罪したのであった。やがて19世紀半ば,トックビルが《アンシャン・レジームと革命》(1856)と題する名著を著し,さらにテーヌが《現代フランスの起源》6巻(1875‐93)において,革命を間にはさむ〈旧体制〉と〈新体制〉の断絶を説くに及んで,学問上の用語としても市民権をえた。 アンシャン・レジームは,社会体制を示す概念であるから,その初めと終りを明確な時点で示すことはむずかしい。…

【市神】より

…市取引の平穏を守護し,その場に集う人々に幸をもたらすと信ぜられる神。市姫ともいう。…

【市場町】より

…市場の存在が成立の基礎となって形成された集落。市場集落ともいう。…

【市女】より

…市に現れる女の商人。平安時代には都の東・西市で市人(いちびと)とともに,政府の買上品や,余剰物資の売却品の取扱いに従事したが,東・西市が衰微するに従い,私商人化した。…

【井戸】より

…東京都西多摩郡羽村町のまいまいず井戸は,台地面から水面までの深さ約10m,周囲60mで,水を汲みやすいように鉢状に掘り下げてあり,形がカタツムリに似ているのでこの名がついた。ローマ市の北北西にあるオルビエト市の聖パトリック井は特殊な構造のまいまい井戸で,1527年から10年かけて凝灰岩中に掘られた。竪井戸は直径4.7m,深さ58.4mで,螺旋状に回って12まわりを248段の階段で下り,別の階段で上ることができる。…

【卸売市場】より

…最も広義には,生産者と販売業者,販売業者相互,または販売業者と産業用需要者の間における取引,すなわち卸売取引が行われる空間的・時間的な広がりを意味する。しかし,一般的には,具体的な施設と制度を有して恒常的な卸売取引がなされる場(具体的市場)を指す。なかでも,青果物(野菜,果物),水産物,食肉といった生鮮食料品を中心とした商品について,現物を眼前に置きながら取引をする具体的な場所とそこにおける取引制度を称することが多い。…

【死罪】より

…死刑の執行には天皇の勅裁を必要とし,かつその奏上は原則として3度行う。死刑の執行は市(いち)において公開されるが,皇親や五位以上の者は家で刑部省官人の立会いのもとで自尽することを許し,七位以上の者および婦人の絞は公開しない。市での執行は,弾正台および衛府の官人が立ち会い,もし囚に無実の疑いがあれば直ちに執行の停止を命じ,奏聞する。…

【十楽】より

…同様の例として〈一楽名〉も見られるが,このように広く庶民の間で用いられるにつれて,十楽は楽に力点を置いて理解されるようになる。戦国時代,諸国の商人の自由な取引の場となった伊勢の桑名,松坂を〈十楽の津〉〈十楽〉の町といい,関,渡しにおける交通税を免除された商人の集まる市(いち)で,不入権を持ち,地子を免除され,債務や主従の縁の切れるアジールでもあった市を〈楽市〉〈楽市場〉といったように,〈十楽〉〈楽〉は中世における自由を,十分ではないにせよ表現する語となった。〈楽雑談〉〈楽書〉などはみなその意味であり,織田信長はこの動きをとりこみ,みずから安土(あづち)に楽市を設定している(楽市・楽座)。…

【商業】より

…したがって,商業を取引のために存在するところの企業と認識するこの説のほかに,交換説,再販売購入説,配給説などがある。交換説は,中世の都市経済における個別的な直接交換をとらえて商業とみる説であり,再販売購入説は,18世紀において商行為を専門の業務とする商人活動が盛んになるに至って,商人の再販売のための購入活動をもって商業とするものである。さらに,19世紀から20世紀にかけて,商人のみならず生産者,消費者,国もしくは地方公共団体によっても商行為が専門的に行われるに及んで,それらの組織体の商行為をも商業ととらえる配給説が唱えられた。…

【場市】より

…朝鮮における市(いち)の一種で,常設の店舗等の特別の施設を有さず,行商人や近辺の農民たちが定期的に集まって商品交換を行う場所。朝鮮語ではチャンシchangsi。…

【商品市場】より

…商品市場とは,商品の〈売り〉と〈買い〉とが集まって値段が決まる場をいう。商品は一般に生産者から問屋(卸業者)を経て小売店に至り,需要家の手に入る。…

【定期市】より


[日本]
 月のうち特定の日に開かれた日切り市。11世紀の半ば,石清水八幡宮の宿院河原(現,京都府八幡市)には午の日,のち子の日に市が開かれたが,これは干支にちなんだ日に開かれた市で,定期市のもっとも早い事例である。…

【都市】より

…都市という日本語は明治中期以後の語で,しばしば行政上の市や町と混同されるが,まったく別の概念である。英語のtownとcityは日本では行政上の町と市,および集落単位の町や都市の訳語にも用いられるが,イギリスではtownとcityはほぼ類似の意味で用いられ,とくにtownが小型の集落だけを意味していない。…

【年の市(歳の市)】より

…年末に立つ市で,年神祭の用具や正月用の飾物,雑貨,衣類,海産物の類を売るのを目的としている。かつて毎月の定期市のうち,その年最後の市を正月用品販売にあてる場合が多かったので,暮市,節季市,ツメ市などともいわれる。…

【東市・西市】より

…日本古代の都城に付設された官市。その存在が確認される初めは藤原京の場合で,宮の北面中門から出土した木簡に糸90斤を沽却(売却)する〈市〉のことがみえる。…

【巫女∥神子】より

…鈴振り神子,湯立神子,神楽神子とも称される。これにもローカルタームがあって,宮中の神事に奉仕した御巫(みかんこ),伊勢神宮の斎宮(いつきのみや),賀茂神社の斎院またはアレオトメ,熱田神宮の惣の市(そうのいち),鹿島神宮の物忌(ものいみ),厳島神社の内侍(ないし),美保神社の市(いち)などが著名である。けれども現在では,本来の神がかり現象を示すものはほとんどみられない。…

【無主地】より

…寺堂のまわりに開かれた田畠や在家は,その経営基盤として年貢・公事(くじ)が免除された。が無主の荒野や峠などに立てられることもよくみられた。市立(いちだて)の場合,商人・百姓等が,自然に荒野などに集まることもあったと推測される。…

【山人】より

…里に住んで水田稲作農業に従事している人々からは,山は異質の空間であると認識され,畏怖の観念でとらえられていたため,多くの怪異を生み出したのである。しかし,東北地方の狩猟者であるまたぎ,関東以西に多い山窩(さんか),全国の山間奥地に分布した木地屋(きじや)など漂泊的生活を送ってきた人々は,定期的にたつ(いち)の日などに,その生産物をたずさえて現れ,里人と交易することがあった。その接触の経験が背景となって,里人は山住みの山人を異質の文化に属する集団だという印象をもっていたのである。…

【市町村制】より

…市町村は2階層制地方自治制度を構成する基礎的普通地方公共団体であり,都道府県に包括される。日本国憲法改正原案には地方団体の種別が規定されていたが,GHQと日本政府の折衝を経て成立した日本国憲法は,地方団体の種別を明示しておらず,それは地方自治法をはじめとする国会制定法にゆだねられている。…

※「市」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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