目次 ヨーロッパ アフリカ イスラム社会 日本 古代 中世 近世 中国 交易 ・売買取引のための会同場所。市場(いちば)ともいう。いろいろな形態の市が,古代から世界のほとんどの社会に認められる。K.ポランニー によれば,人間社会の歴史全体からみると,生産と分配の過程には,三つの類型の社会制度が存在しており,古代あるいは未開の社会から現代諸社会まで,それらが単一にあるいは複合しながら経済過程の機構をつくってきた。それらは,(1)互酬 reciprocity 諸社会集団が特定のパターンに従って相互に贈与しあう,(2)再分配redistribution 族長・王など,その社会の権力の中心にものが集まり,それから再び成員にもたらされる,(3)交換exchange ものとものとの等価性が当事者間で了解されるに十分なだけの安定した価値体系が成立しているもとで,個人間・集団間に交わされる財・サービス等の往復運動,の3類型であり,それぞれの類型は社会構造と密接に連関をもって存在している。市は,この(3)の〈交換〉が成立する社会がつくり出した方式である。部族間,領国間,あるいはそれぞれの内部で敵対関係がやみ,平和的な交渉がもたれるようになると,平地農耕民や山地民,漁労民,牧畜民あるいは都市民など生産形態を異にする人々が取引・交易の動機をもって会同するようになり,交通の便のよいところ,目印になるものがあるところなど特定の地点に,定期的に交易場が開かれるようになる。古代社会でも,また未開的あるいは部族的社会でも高度に組織化された市が存在した例は少なくない。しかし,それらはその社会の生産と分配の過程の補助的手段にすぎず,互酬や再分配の原理によって統合されている基本的な経済機構の外に存在していた。その点において,今日の社会を主導している近代西欧的な市場(しじよう)社会とは大きく異なるのである。市は,交換の比率が需要と供給によって決定される場であるが,交換原理が卓越して,ものに限らず土地・労働力も商品化され取引されるようになり,価格決定の場としての市場体系が,社会をあるいは経済を決定するようになったのが近代西欧的な社会である。
アフリカ社会の市の人類学的研究を行ったボハナンPaul BohannanとダルトンGeorge Daltonは,売買取引の特定の場である〈市場marketplace〉と,需給関係によって価格が決定される〈市場交換原理 principle of market exchange〉とを区別し,近代社会以外にも市場交換原理の作用する場合が見いだされることを指摘し,場としての市と市場交換原理が果たす役割に基づいて,社会を次の三つに分類した。(1)市場欠如型社会 場としての市がなく,市場交換原理も作用するとすれば個人間にあらわれるにすぎない。(2)外縁市場peripheral market型社会 市も市場交換原理も存在するが,作用するのは市場にあらわれる限られた商品に対してであり,土地や労働力は市場交換原理の作用をうけない。生産者も買手も生計を維持するのに,基本的には市場と市場交換原理に依存していない。(3)市場交換原理支配型社会 市は,買手・売手または生産者にとっては,生活維持のための物資購入・現金収入の場であり,双方の需給関係で形成される交換原理と価格決定で動かされている社会である。(1)や(2)の社会では,互酬や再分配の原理が働いており,その周辺で市や市場交換原理が存在するにすぎない。
市が成立するような社会の一般的特質として,次のようなことを指摘することができる。市は,農耕民を中心に発達する例が多いが,非農業的人口がその周辺にある程度集住して都市民の出現がみられること。また,農民の大部分は小農peasantであるにしても,都市民などに収穫の一部を提供できる生産基盤の安定・成熟がみられること,である。個々の動機に基づく市での売買を通して,農民は新しい財や経済活動に対する新しい行動様式を身につけ,貨幣経済の浸透を促進した。都市の発達は市の発達を促し,局地的な市場網が形成され,さらに広域にわたる経済的結合の網の目がつくられていった。市での売買をなりわいとする人々の中には,各地の市を巡回し特産物の取引を行う商人も出現した。
市は,都市と村落の人々の相互交流の場でもあり,ものと人の集散の場,情報の集散の場でもある。市が開設された場所として,社寺の庭,門前,宗教的権威の下に保護された場所,広場等があげられるように,単に商業的活動のセンターであるばかりではなく,そこに集まる群衆を対象とし,また彼らを主人公として,その地域の多彩な催し事が繰り広げられる場であった。人々はそこで,ものの売買ばかりではなく,一種の興奮をよびおこす雰囲気を味わい,自らもそれに参加することになる。特に村落の人々にとっては,都市と市は,村落社会の伝統や秩序からはなれ,未知の人と出会い,売買の駆引きなどを通して,村落の日常生活では経験しえない体験をする場である。その点では非日常的であるが,市がある時はいつでも誰でも参加できるという日常性もあり,そこでは帰属すべき秩序が一時的になくなったり緩んだりするのである。市は一面において,人混みの雑踏や騒音にかこまれた偶然性の中で売買を成立させて経済活動を達成させる。こうした側面を構成する要素は,まさに祝祭を構成するそれと同様である。ここに,市のもつ祝祭的性格という点が着目されるのである。社会的休日あるいは宗教的祝祭日が重なり,さらに人出がふえ非日常性が増すことによって,市のこうした局面は,縁日やカーニバル へと連続していく様相をみせる。当然そうした場には,見世物 ,芸人も登場し,見せる者と見る者が一体となった大道芸が展開される。このように市やその周辺には,祝祭的・芸能的な構成要素が認められる。また市は,その社会の基層文化を陳列する場のひとつであるともいえる。アフリカの市などで,マーケット・マザーmarket motherと呼ばれる女性が,タバコなどを商いながら占師やある種の宗教的職能者をつとめ,依頼者に応じることがみられる。解放感,期待感,猥雑感も,市や都市の重要な雰囲気である。こうしたさまざまな要素が十分に発揮されることが,市に活況を呈させ,統治者や土地の有力者は市を保護し,市の平和や自由を維持するための規制をしいたりした。
市はその交換原理によって成立するが,市が存在した大部分の社会では,血縁・地縁などの社会関係の中に組み込まれている互酬や再分配の原理と共にあり,交換原理が伝統的な社会関係をつきくずすことはなかった。しかし,近代西欧の資本主義社会に特有の,交換原理の優越した経済体系が,世界的に拡張していったとき,非西欧的伝統社会の経済的側面・社会的側面に重大な影響を及ぼした。これらの伝統的社会は,前述のように近代西欧社会の構成原理と大きく異なっており,西欧社会との接触を通して,その異質性は文化人類学などの研究対象となった。そこでの問題は,伝統的社会の構成やその社会内の経済過程についてであり,近代西欧社会が押しつけた市場交換経済・貨幣経済による伝統的社会の変容についてであった。市についての研究は,征服や植民地下で急激な変化や衝撃が大きかったアフリカやアメリカ大陸の研究において進展と蓄積がみられる。 →経済人類学 →交換 →市場 (しじょう) →都市 執筆者:藤井 せい子
ヨーロッパ ヨーロッパにおける市の発展はヨーロッパ社会の根幹と深くかかわり,他の諸文明とは異なったヨーロッパの特質を浮かび上がらせている。しかし食糧や生活必需品を少量でも購入できる交換の場としての市は決して西洋に固有のものではなく,世界各地にみられ,古い歴史をもっている。互酬と再分配を経済活動の基本構造としている社会においても祭礼や儀式と結びついた市があり,それは政治活動の場でもあった。そのような市として古代ギリシア・ローマのポリスのアゴラ やフォルムforumがあり,奴隷,家畜,衣服,金銀細工品その他の取引が行われた。エンポリウム emporiumも同様の機能をもっていた。前4世紀アレクサンドリアの建設によって供給が価格に応じて変動する市場価格形成の場が生まれ,政治や軍事力によってではなく,現実の必要に応じて供給が合理的に動くようになった。この新しい市場組織はローマ帝国 の台頭によってついえてしまうが,このような市場組織を生みえた地中海文明の存在はのちのヨーロッパの発展にとって無視しえない影響力をもつものであった。
アルプス以北の地域においてもローマのコハク商人の進出に際して宿営所となった特定の集落があり,コハクの道沿いに旅籠(はたご)が数軒並んでいた。この集落はラテン語でタベルナtabernaまたはフォルムと呼ばれ,そこで市が開かれ近隣農民との取引が行われていた。のちにこれらの旅籠を主体とする集落はリシュケlischkeと呼ばれ,都市的形態をとるようになる。ウィクwik/vikと呼ばれる集落も交通の要衝にあり,同様な性格をもっていたと考えられる。
コハクの道からはずれたところにも小さな市がしばしば設定されていたが,そこには近隣の農民がわずかな鶏卵,羊毛などを取引するためにやってくるにすぎず,ピレンヌのいうように〈周囲の人々の家計の必要を満足させ……人間のもって生まれた社交的本能の満足に限られた〉ものであった。〈御料地での市場をうろつきまわること〉がカール大帝 の御料地令(54条)で荘民に禁じられているが,これも市が遊びの場でもあったことを示している。饗宴と見世物が市のおもな呼び物となっていたからである。コハク商人やユダヤ人と接触のあったところ以外はほとんどこのような状態であり,パリに近いサン・ドニの市のように,すでに8世紀に1年に1度,遠方から巡礼とともに多くの売手や買手を集めたところはわずかであった。
9世紀ころまでこのような状況であった西欧社会のなかに成立した都市は,のちに価格形成市場としての機能をもつことになる市場の萌芽を内包するものであった。はじめ王侯の居城や商品集散地,そして教会,修道院の近くで祝祭日に開かれていた市は,やがて広範囲にわたる訪問者をもつ歳市Jahrmarktと近隣農民の家計の必要のための週市Wochenmarktに分けられるようになった。歳市はキリスト教 の献堂式などの祭日に開かれることが多く,1日から2週間位つづくものもあった。週市は本来は1日限りであり,のちになって2日開かれる場合もあった。日曜日の市や特定の品物の市などは週市の変形であった。市を意味するドイツ語のメッセMesseは教会のミサに由来する言葉で,転じてミサのあとに開かれる市をも示すようになった。マルクトMarktはラテン語のmercatus に由来し,〈買う〉〈商う〉に主たる意味がある。11,12世紀にはこうした先駆的形態の集落から都市が成立していった。 →都市 市場Marktこそ都市生活の中心であり,市場をもたない都市はなかった。市場は町の中央にあり,石で舗装されている場合も多かった。北ドイツの都市の市場にはローラン(ローラント )の像が立っているが,これは都市の特権と自由のしるしであり,市場平和のしるしとしての十字架も同様の意味をもっており,ときには王が市場の自由を承認したしるしとして,この十字架に手袋がかけてあった。カール大帝以来開市権は王の大権(レガーリエン )に数えられ,王の特許状をえてはじめて市の開設が認められたからである。かつて武装した集団の食糧補給・休息の場であり,祭礼の場でもあった市は平和の場として位置づけられていたが,市場平和はこの平和領域(アジール )としての性格に負うものであり,市を訪れる者に平和が保障されていた。市を訪れる者が市の外で犯した犯罪への報復や彼らが負っている債務の徴収は市では禁止されていた。
都市内に成立した市場は常設の市として都市生活のなかできわめて重要な役割を果たしていた。まず第1に市場に面して市参事会堂や教会が建てられていた。市場は市民集会の場であり,都市法 に基づく裁判の場でもあった。机といすがおかれた青空の下で囲いがつくられ,裁判が開かれるのが古来の慣習であった。のちになって裁判は特定の建物のなかで開かれるようになる。ついで市場は処刑の場でもあった。すべての都市市場にさらし台や絞首台がおかれ,公開処刑が行われた。しかし市場の最も重要な機能は,市の手工業生産物や近隣の農業生産物の取引であった。都市市場における取引には場所と時間が限定されており,初期には小路に,12世紀後半には市場広場に屋台が並べられ,肉や魚,パン,皮製品,衣類,靴その他の品物が取引された。屋台のほかに小屋がけの店もあり,いずれも所有権は都市共同体にあったから商人は店賃(たなちん)を支払わねばならなかった。これらの屋台などはギルド ,ツンフトを通して市から借り出すものであったから,各職種によって屋台の数もはっきり定められており,かってに屋台をつくることはできなかった。のちになると,これらの店は建物のなかに吸収されていく。夜間には雨戸となる大きな板をおろし,支柱で支えてその上に品物をおいて商いがなされていた。
週市も歳市も鐘 の音によって開催が告示された。市場開催の鐘が鳴るまでは取引をしてはならなかった。市の終了も鐘の音によって告げられ,ときにこの鐘は市から帰る人が1マイル歩けるあいだ鳴らしつづける場合もあった。禁制圏内に住む者が無事に家に戻るあいだ安全を保障するためであった。都市成立後は朝の鐘が市門を開く合図となり,それが同時に商工業の営業開始の合図でもあった。朝の鐘とともに公的生活が始まったのである。夕べの鐘は2回鳴らされた。第1の鐘は夕方6時ころに鳴らされる晩禱の鐘であり,第2の鐘は夏なら9時ころ,冬なら8時ころに鳴らされた。第1の鐘は昼の仕事の終了を意味し,法行為の有効期間が終わったことを示していた。裁判も陽光の下で開かれねばならず,すべての法は陽光の下で告示されたからである。夕べの第2の鐘は夜の時間の始まりを示し,この鐘の音とともに市門が閉じられ,市民の夜警の義務が始まった。以後の就労は禁止され,各種の支払も第2の鐘が鳴り終わるまえに行わねばならなかった。また第2の鐘が鳴り終わるとすぐ灯火を消し,居酒屋も閉じられた。
中世における市の機能は,シャンパーニュ の市に代表されるような遠隔地商人 のための仲立市場と,市民自身の商業取引の場とに分けることができる。前者はイタリア,プロバンス からフランドル にいたる大商業路にそって成立しており,シャンパーニュ とブリーの歳市がその代表的なものであった。それらは交互に続けて一年中開かれており,織物,コショウや香料などの東方産品,皮革製品などの奢侈品が取引の中心をなしていた。シャンパーニュの歳市は,イタリアの地中海商業とフランドルの工業との接点としての意味をもっていたが,その影響は全ヨーロッパに及び,ドイツ人などもそこに商館をもっていた。シャンパーニュの歳市は13世紀後半には最盛期に達し,14世紀には衰退し始める。これは各地に都市が成立し,定住商人による商業が優勢になってきたためで,通商路の移動によるものであるが,のちのフランクフルト のメッセのように国際的な市としての性格をのこすものもあった。
常設された都市市場は,貨幣経済の展開とともに市民の日常生活における人間関係を規定する重要な空間となっていった。しかし互酬と再分配の原則が残存している社会においては都市市場の成立が直ちに価格形成市場の成立を意味してはいなかった。中世ヨーロッパの都市市場においてはギルドとツンフトが結成され,仕入価格と小売価格,製品の質や量の管理を行っていた。ギルドやツンフトは古来の宗教的性格を加入儀礼や宴会,祭礼のなかに保持し,キリスト教化されたのちも,構成員の彼岸における死後の救いを媒介として結ばれた兄弟団 を中核とするのであり,宴会を開き,あるいは参加する単位でもあった。対外的独占と対内的平等を原則とするギルド,ツンフトの存在は都市経済における価格形成市場の成立を阻害していたが,それにはキリスト教が互酬・再分配の関係に彼岸における救いを媒介として,新しい回路(無償の贈与)を設定したことが大きな契機となっていた。カトリック教会の教義の根底には贖宥 (しよくゆう)の観念,つまり善行や喜捨,寄進に対して罪のゆるしが与えられるという形で互酬関係の原則が古代社会から流れこんでいたが,それは彼岸における救いを媒介として教会や公的機関に対する一方的な贈与の機会を増大させ,この原理が中世都市における人間関係の根底に流れていた。中世都市の商人たちは,あくことのない営利欲にかられて利潤追求を行う反面で,蓄えた財貨をときに宴会や祭り,喜捨,寄進という形で蕩尽し,彼岸における救いを祈願した。このような関係は16世紀にルターとカルバンの出現によって破られることとなる。現世における善行と彼岸における救いとの関連を拒否したルターによって古代的な互酬関係は払拭され,中世的都市経済を支えていた兄弟団的結合の原理にも大きな衝撃が加えられた。以後は経済と宗教は分離し,近代になって価格形成市場が出現することになるのだが,ヨーロッパの中世都市市場は古代的な互酬・再分配の関係から価格形成市場成立までの経過のなかで,世界史的にみても特異な存在であり,注目に値するものである。人と人とが出会い,飲食し,見世物を楽しみ,売手の呼声のこだまする市は,価格形成市場成立ののちも各都市に小規模な形で残存し,人間の原初の姿を今日に伝えているのである。 執筆者:阿部 謹也
アフリカ 各地にさまざまの,構造,機能,成立時期を異にした市がみられる。概略的には,東・中央アフリカ では植民地政府によって市が導入されたのに対し,西アフリカではそれ以前から市があり,植民地下でも固有の権力者の手にゆだねられてきたことが多い。17世紀末からヨーロッパと交易をもち,記録が残されている西アフリカのギニア海岸のダホメー族 では,かなり発達した市をもち,子安貝と硬貨を併用した貨幣がみられた。18世紀には主要港ウィダに大市があり,肉,魚,穀類,野菜,果物,陶器,金物,護符,油などの生活物資や日用品がそれぞれ別の市で売られた。特にダホメー王国 では,奴隷貿易の輸出にかかわって港が栄え,交換レートや関税を伴った流通機構が注目された。ナイジェリア のヨルバ族の市は,場所と周期によって5類型に分けられる。(1)まちの常設市,(2)まちの夕市,(3)いなかの夜市(定期的),(4)いなかの昼市(おもに肉),(5)いなかの市(数日ごとに定期的)というものであり,市の周期は8日ないしは4日である。19世紀後半,西欧の統治下で7曜週がとり入れられたが,元来は4日あるいは8日が1週であったようで,この周期にしたがって,市が立った。いなかの市の重要な立地条件は,半径数マイル内のすべての村から容易に行ける便のよいところということである。市場の売手にはほとんど女性がなり,かなり遠方まで頭上に品物をのせて歩いて行く。アフリカ社会の多くは夫方居住婚であるので,既婚女性は,生まれた村や血縁の人々との邂逅や接触を市でもつのである。また,北部ナイジェリアのハウサ族のように,さまざまな職業と産品があって自給性が高く,市が村落内での自給と交換のためにだけ機能している社会では,村落内の特定の場所で,決められた日に,決められた様式で市が立ち,村落間の交流はあまりみられない。
市が発達し市場原理が作用している社会では,まちの市場が広い地域的市場圏と遠隔地交易の中心となり,経済的機能を果たすとともに,首長や祭祀者,役人が〈ふれ〉を出したり,またうわさや世間話など種々の情報伝達の場であり,社会生活の中心でもある。ブルキナファソ のモシ族では,割礼などの加入儀礼や首長・長老の葬送に関連のある儀礼,一周忌,幼児死や死産の儀礼なども,市で行われる。また市には,祭祀の中心である神聖な場があり,ときに市の平和に関連する供儀などの宗教的活動を伴う。
アフリカの市の状況は,19世紀後半の西欧社会による植民地化,政治的支配と,それに続く新興国家独立の激動のなかで,大きな衝撃と変容をうけた。さらに近代社会の市場原理に基づく経済と貨幣経済の侵入は,部族的社会を統合してきた互酬・再分配の原理とそれらの伝統的市で用いられた〈特定目的のための貨幣〉が担っていた社会的意味をつきくずし,とり結ばれていた社会関係に動揺を与えるようになった。 執筆者:藤井 せい子
イスラム社会 イスラム世界において市はバーザール bāzārという名称で一般に呼ばれている。この語はペルシア語 で,日本では慣用でバザールといい,アラビア語のスークsūqに相当する。
バーザールやスークは,定期市,常設店舗の連なる市場の双方を指すが,歴史的には定期市のほうが早く知られている。イスラム勃興以前のアラビア半島 では,多神教崇拝の偶像が祀られている聖域の近くで定期市が開催された。10ばかりの定期市のうち,ウカーズのそれが最も有名で,11月に市が立ち,クライシュ族など遊牧民が集まり,タミーム部族出身の管理人が十分の一税を徴収していた。
7世紀以後,イスラム都市が各地にできてくると,常設店舗の集合としてのスークが形成されてきた。これは自然発生的にできた場合もあれば,人為的・計画的につくられた場合もある。前者は定期市が発展して常設店舗の市場になった場合である。イスラム都市は生活空間,行政単位として,いくつかの街区(ハーラ ,マハッラ)に分けられていたが,その地区を東西南北に走る小路の辻で定期市が開かれ,これが常設店舗に発展したものが多い。これは流通範囲の限られた小市場であった。これに対して都市全体の流通の核となり,近郊の農村,遠隔地にもつながるような大市場が都市計画に従って建設された。アッバース朝 の首都バグダード にあったカルフの商工業地区はこれの典型である。
大市場のもつ流通機能をイランのイスファハーン のそれを例にとって説明しよう。この町のバーザールはアラブ征服時代からその原形があったが,16世紀サファビー朝時代に整備されて今のような形になった。〈王の広場〉が町の中心に配置され,その北側から北東のコフネ広場までドームの屋根で覆われたバーザールが連なっている。アーケード の通路からわきに入ると,キャラバン・サライ の中庭に行くことができる。このような建築配置の中で,広場,常設店舗,キャラバンサライ がそれぞれ流通機能を分担しあっていた。
広場は一般にイスラム都市において処刑や外国使節を謁見する場所,練兵場として利用され,重要な機能をもっていた。〈王の広場〉も上記の機能のほかに,西に宮殿,南と東にシャー・モスクとロトフォッラー・モスクがあり,四方を常設店舗が取り囲んでいたので,政治・宗教・商業の機能をここに集中させていた。サファビー朝期には,フランス人の旅行家J.シャルダンの報告によると,毎日この広場が露天商の黒いテントで埋まったというから,常設店舗を補完する露店の市場であった。同じような状況は19世紀のブハラでも見られた。タジクの革命的文学者アイニーの自伝によると,ブハラ・ハーンの宮殿の前にあるアルグ広場は,処刑が執行された後,食料品屋,果物屋,菓子屋などの露天商に開放された。広場は常設店舗ができた後でも,依然として定期市が開かれる空間であった。コフネ広場では,19世紀に週3日,穀物,乾草,わら,薪,木炭を売買する市が立った。水曜日と金曜日の2日は,別に古物市が開催された。市民は不要になった衣類や道具を持って広場に集まり,相互に売買を行った。広場はまた特殊商品の卸売市が立つ所でもあった。19世紀のイスファハーンでは,四つの広場において果物,野菜,アヘンの取引が毎日行われた。果物の場合,その流通過程は次のとおりであった。まずボナクダール という卸売商人が近郊の村に果樹園を賃借し,ここでとれた果物をラクダ,ロバをひく運輸業者を雇って広場に運び込んだ。次いで仲買人立会いのもとに果物の小売商に卸し,大きな盆を頭に載せて運ぶ〈強力(ごうりき)〉に店先まで持って行かせた。
広場には市場監督官(ムフタシブ )が,昼間常駐していたので,大市場全体を統轄する役割をもたされていた。ここにはまた,語り物師,吟遊詩人,軽業師,曲芸人,道化者,レスラー,ルーティーがやってきて,それぞれの芸を演じてみせた。これによって人がおのずから集まってきて,そこで相互に情報の交換がなされた。チャイハーネ (喫茶店)とともに,さまざまな種類の情報を含むバーザール風評なるものが出てくる所であった。
常設店舗は大市場の中心をなし,小売商の店か手工業者が仕事をする生産の場であった。アッバース朝期のバグダードと同様,19世紀イスファハーンでも,染物師,更紗づくり,機織職人,菓子屋,鞍づくりなどが業種別に一区画を構成していた。これはギルドの成員が自主的にまとまったというより,むしろ政府の徴税,市場の監督の利便を考えてのことであった。何よりも店舗施設は政府の建設した固有の不動産施設であり,商人,職人は最初から賃貸者として統制されていた。常設店舗に隣接するキャラバンサライは,国際貿易に従事する大商人が隊商宿兼卸売事務所として使うもので,これによってバーザールが遠隔地貿易とつながっていた。
大市場は以上のように,広場,常設店舗,キャラバンサライの三位一体の構造からなり,前近代における流通の根幹をなしていた。しかし,20世紀になると,新しい店舗が主要街路に沿ってつくられ,その比重が低下した。 →ギルド →商人 →職人 →都市 →広場 執筆者:坂本 勉
日本 古代 《日本書紀》《万葉集》などには,8世紀以前の市として〈餌香市 (えがのいち)〉〈阿斗桑市 (あとくわのいち)〉〈海柘榴市 (つばいち)〉〈軽市 (かるのいち)〉などがみえる。このうち〈海柘榴市〉は上ッ道,山辺道と横大路の交点付近に,〈軽市〉は下ッ道と山田~雷~丈六の道との交点付近など主要交通路の結節点に位置し,飛鳥の倭京の北東と南西にあって,これと密接な関係にあったらしい。同様のことは《日本書紀》持統3年(689)11月丙戌条に見える〈中市〉についても言えるが,その所在地は明らかでない。このような初期の市の中には,都宮との関係が深いものが存在し,都城の成立とともに,藤原京の〈市〉や平城京以後の〈東西市(東市・西市)〉,難波京の〈難波市〉など,市司(いちのつかさ)の管理する市へとうけつがれた。これに対して〈餌香市〉〈阿斗桑市〉は,河内の交通の要地に立地した市であるが,河内以外にも《日本書紀》天武1年(672)7月壬子条にみえる近江の〈粟津市〉のごとく各地に市が存在していたとみてよい。
8世紀以降の奈良時代~平安初期においても,上述の市は存在し続けるが,それ以外にも《万葉集》に駿河国の〈安倍市〉,《日本霊異記》に美濃国の〈小川市 〉,備後国の〈深津市 〉,大和国の〈内(宇智)の市〉,紀伊国の〈市〉などが見える。このほか《風土記》にも商人の集まる場所が見えるから,各地に小規模な市が数多く存在したのであろう。これらのうち〈安倍市〉と〈深津市〉が国府に近いことが注目される。この2市以外にも,周防国府や和泉国府域内に〈市田〉〈市の辺〉の小字名が存し,また国府推定地周辺に市にちなむ地名が残っている場合は多い。後述の《枕草子》にみえる播磨国の〈餝磨(しかま)市〉もその一例であろう。これらの国府に近接する市〈国府市〉は,国の交易活動を支えるものであった。国は中央政府へ貢上する土毛,諸国(朝集使)貢献物,交易雑物さらに場合によっては調庸物の規定された品目数量をそろえるために,これらの市において交易を行った公算が大きい。したがってこれらの〈国府市〉で売買される物品には,その他の一般民衆の生活により密着した市で売買される生活必需品とは異なるものも含まれていた。それを示すのが〈深津市〉の場合で,この市には瀬戸内海対岸の讃岐を含むかなり遠方からも〈正月元日の物〉を求めて人々が集まっていた状況がうかがえる。この〈正月元日の物〉の具体的内容は明らかでないが,日常的消費物資とは異なる奢侈(しやし)品であろう。
平安中・後期では,《枕草子》に当時著名な市として,〈辰市 (たつのいち)〉〈椿市〉〈おふさの市〉〈餝磨市〉〈飛鳥の市〉が挙げられている。これらは,作者清少納言の注意を引いた市を列挙したまでであって,これ以外に多くの市があったことは言うまでもない。このうち〈辰市〉は平城古京の〈東市〉の後身と考えられる。また〈おふさの市〉〈餝磨市〉〈飛鳥の市〉などははじめて見えるもので,各地に新たな市が増えていることがうかがえる。 →市司 →国市 →東市・西市 執筆者:栄原 永遠男
中世 平安京の東西市は,鎌倉期に入ると西市が消滅し,東市のみが残存,皇子女の五十日祝(いかのいわい)の祝餅などが買われている。京都の商業は,三条町,四条町,七条町などの町通り(現在の新町)の店舗商業を中心とするようになった。京都で市が開かれるのは虹市などの瑞祥によるものとか,寺社の祭礼日,歳市など,または特定職種の場合のみであった。
これに対して,地方諸国における物資の交換取引の主要な場は中世を通じて市によった。すでに平安期から国衙(こくが)の周辺には国市 (くにいち)が立てられ,調庸物や年貢公事物の交換の中心をなしていた。国津や社寺の門前にも市が立ちはじめ,干支による辰市や酉市なども開かれた。鎌倉期になると,月3度の定期市,いわゆる三斎市が多くなる。幕府の膝下,鎌倉では,1251年(建長3),大町など7ヵ所に市立ての場所が定められ,65年(文永2)は9ヵ所に増加している。諸国にも,交通の要衝に市が発達した。すでに《源平盛衰記 》に出る,近江小脇の八日市や,《今昔物語集》の近江の矢橋(やばせ)の市など,文学作品にも多くあらわれる。これらの市で交換する物資は,年貢公事物か,その納入のためのものが多く,地頭,下司,公文などの在地領主による,中央の荘園領主への貢納品調達や自己の収納物の換貨のための利用が,大きな部分を占めた。したがって来往する商人も,〈京下りの商人〉と言われるように,中央から都や各地の特産物を持参し,地方の特産物を買い取っていく隔地間取引商人が多い。
周辺農村の一般民衆が市に参加して,交換を行うのがきわだってくるのは,鎌倉末期から南北朝期にかけてである。《東関紀行》に,尾張の〈かやづ(萱津)の東宿の前を過れば,そこらの人あつまりて,里もひゞくばかりにののしりあへり,けふは市の日になむあたりたるとぞいふなる〉と生き生きと市日のさまが描かれている。街道筋の宿駅が,はや宿場町の様相を示しはじめ,周辺農村からの人々を加えて,市日の繁盛ぶりがうかがえるのである。この時期には周辺農村をまきこんで,旧来からの市はますます規模を拡大し,一方で新市が増加した。
市には市姫神として市杵島(いちきしま)姫がまつられたが,のちには戎神(夷)がまつられるようになり,市場祭文が唱えられた。新市が開催されるときには,どこかの市から市神 (いちがみ)を勧請してくるのが常であった。また例えば,近江国長野市は〈当国の親市〉と称したが,市相互の間にかかる本末関係があったものと思われる。人々が集まる市は芸能の場でもあり,説教の場でもあった。
南北朝初期,宝市とうたわれた天王寺浜市(大阪)には,布座,米売,柑(こうじ)座など種々の商売物の座があり,また借屋があり,常住のものも見られた。備中国新見荘の市は,3の日に市が立ち,1334年(建武1)には,地頭方のみで,市場在家14軒の屋敷が存在している。領家方を加えると,その倍の規模をもつ市であり,定住化が進んでいたと考えられる。室町初期には,奈良では,南市,北市,高天市が毎日交替に開かれ,南市には30余の市座があった。1433年(永享5),安芸国沼田(ぬた)荘の安直(あじか)郷の市は,在家300宇,小坂郷新市(塩入市庭)は在家150宇を数えるほどの繁栄ぶりであった。これらに立売商人を入れると相当の規模をもつ。したがって,領地内に,大きな市が立つほどの交通の要衝をもった領主は,相当の収入源になった。薩摩入来院の領主渋谷氏は,借屋崎市について,〈領内に市あり,得分あるの地なり〉と,譲状に書いている。それゆえに領主は,市場に保護を加えるとともに,それを直接掌握下におこうとつとめた。小早川氏は,すでに南北朝期,市場における裁判権を掌握し,直接に裁決している。
しかも鎌倉期の市場は,《一遍聖絵》において,市日のにぎやかな備前国福岡市と,その他の日の荒涼とした信濃国伴野市が描きわけられているように明暗がはっきりわかれていたが,この時期には,〈常住〉といわれるような定住店舗化したものも多く,それが市と併存している。市の開催日も六斎市 と言われるような5日ごとの市が多くなる。美濃大矢田市や宇治の六斎市が著名である。これらの市の販売座席は,領主に公事物を納めることで,その権利を得た。狂言《柿売》に,〈罷出でたるは所の目代,富貴につき新市を立てうと存ずる。何によるまい一の棚を飾った者は,万雑公事を免さうと存ずる〉とあるのが,その事情を示している。市には市目代や市預(いちあずかり)がおかれていて,市を管理した。その販売座席の占有権が既得権化して,営業権となり,さらに独占権となるものが多く,座商と言われるもととなった。近江湖東の保内(ほない)商人 や小幡商人たちは,この市座 の独占をめぐって,激烈な争論をくりひろげたことで有名である。
さて,年貢物の代銭納を契機として,農村への商品経済の浸透はますます盛んとなり,農村市場の簇生をもたらした。例えば,尾張国では室町期の農村市場の簇生は,2~3kmごとに検出できるといわれている。少しおくれて,武蔵・相模国でも,戦国期には,8~10kmごとに市が立てられていた。これらの市は,商品経済の発展にしたがってしだいに淘汰され,大きな市に統合されていった。そして市町 といわれる町場と市との併存形態の中心集落が形成された。この中心集落は在地武士の城館と結合する場合が多く,尾張国では,16世紀,19の中心集落が,城下市町として,ほぼ4~6kmの間隔で分布して形成されていた。近江国では同じころ,大名六角氏の家臣たちの支配する市が,いくつか見える。九里(くのり)員秀の支配する馬淵市,建部直秀の八日市,嶋郷秀堪の嶋郷(しまのごう)市などが見られるが,これらはかかる市町併存の中心集落であったと見ることができる。
かかる中心集落=市町とは別に,大規模な市が領主によって立てられる場合もあった。1486年(文明18),大和国矢木に,土豪の越智氏と岸田氏が申し合わせ,11月13日より1ヵ月,毎日,市を立て,数百間の屋形を打って,市場税を取った。1572年(元亀3),武田氏は,駿河国臨済寺門前に一百軒の市屋形を立てて,月6回の定期市を開いている。
市場税は領主の大きな収入源であったため,領主は市に対して積極的な保護を加えるとともに,市を支配下に掌握しようとした。戦国も後期となると,戦国大名は領国経済の活発化と,土豪支配下にある市を直接掌握するために,積極的な市立て政策を行った。新市新宿を立てて,警察的取締りを行い,押買 (おしがい)狼藉や喧嘩口論,国質・所質 などの借銭取立てを禁止するなど保護を加えた。ときには〈町人さばき 〉と言われて,町人の自治が認められている場合もある。例えば,1585年(天正13),後北条氏治下の武州松山本郷の市では,〈市の日商人中にていか様の問答これある共,奉公人一言も綺(いろ)ふべからず,町人さはきたるへき事〉として,商人たちの争論の裁決は,町人の自治によることを規定している。
さらに,楽市として,市場税を免除し,市座の独占など専売座席を廃止して,商人が自由に商取引ができるようにした(楽市・楽座 )。これは当時の商業流通が進んで,問屋と小売が分離し,問屋が独占権も掌握して,市座などの小売商人の独占権が,大問屋の担う商品流通の妨げとなったことによる。また,大問屋を御用商人として大名が掌握したことにもよる。
以上のような楽市政策は,近江の六角氏が観音寺城の城下町として,石寺を楽市とした1549年(天文18)を初見とし,戦国大名の城下町経営のために用いられている。今川氏の66年(永禄9),駿河大宮,織田信長の67年,加納 楽市場などをはじめとして枚挙にいとまがない。後北条氏,吉良氏など,あるいは徳川家康,豊臣秀吉および織豊2氏の家臣の新城下町経営に多い。信長の安土山下町や,秀吉の姫路などがその代表であろう。
もちろん大名の政策以前に楽市は存在したのであり,1558年,自治都市の桑名は,昔より〈十楽 の津〉であったといわれている。すなわち,自治の市政機関が楽市という原則をうちだしたわけである。したがって,領主・大名権力によらず,商工業者が楽市を主唱するためには自治の主体が形成されていなければならず,定住店舗化し,都市共同体が形成され,市政を掌握してはじめて,かかる政策がうちだせるのであって,定期市段階では,その主体の形成の条件を欠くものであろう。また,自治都市にも,山城国の大山崎のように,楽市とは反対の封鎖的な座特権の町も多い。ともあれ,楽市も,都市膨張期,城下町建設時代の産物であって,のちには,都市全般に封鎖的傾向が強くなると言えよう。
市は,定住店舗による町の発展ののちも,併設されていたが,だんだん少なくなっていった。それとは別に,中世後期から一定の職種を専門とする卸売市場が各地におこった。その早い例として,南北朝期,淀川を上ってくる塩,塩合物(塩魚)に限って独占的に商う淀魚市があった(魚市 )。これは石清水八幡宮に所属する神人である淀魚市問丸が,着岸強制権と専買権を有したもので,その卸売市場であった。室町中期,京都の三条と七条にできた米場は,四府駕輿丁座 (しふのかよちようざ)に所属する米座 が独占するところで,京中へ運び込まれるすべての米は,米場に着けることが強制され,米場はその米の専売権を有したのである。この米場は,江戸期大坂の堂島米市場 の先駆をなすものである。京都にも馬市があったが,戦国時代には,各地に,馬市,牛市が立てられた。美濃国大矢田市も,美濃紙特産地の市として,紙が取引の主要商品であり,その紙を買い付けて京都へ運ぶ専門の商人,近江湖東の枝村商人が存在したのである。各地の特産物生産がいちじるしく発展した中世後期,このような特産物が主として放出される地元の市場の存在は注目される。 執筆者:脇田 晴子
近世 近世になると六斎市のありかたに異なった二つの現象が見られる。一つは中世以来の六斎市のおびただしい消滅であり,もう一つは,これとまったく逆に,新しい六斎市が各地に出現することである。このような近世初期に見られる六斎市の推移について,これを中世の六斎市が崩壊,消滅していくものと考える見方と,領主による市の編成替えと考える見方がある。前者については,中世における貨幣納の年貢が,近世に生産物納となったことによって,農民の貨幣取得の機会となっていた六斎市を不要にさせた結果,六斎市の消滅を招いたものであると説明されている。後者については城下町が整備されていく過程で店舗商業の活動が不十分である段階では,これを補うものとして市が立てられていくとされている。この近世初期の六斎市の再編成について大石慎三郎は信州上田藩を例にとり,藩が領国経済の確立を進めていく中で,城下町市場が領国内の市を吸収して六斎市が消滅し,吸収しうる限界外の地域では,城下町市場の分身としてその機能を代行する市町が設立されるとしている。丸山雍成はまた,近世初期の宿駅制の整備にともなって市の再編成が行われるとする。宿駅を保護する領主の政策が,宿駅助成のために,市の設立を許したというのである。以上,いずれにしても,近世初期に見られる市の変動は,幕藩体制の成立の過程で起こったものであった。
近世初期の市に出される商品を見ると,1680年(延宝8),奥州の城下町福島の市では〈木綿,ふるて,小間物,綿布,いさば,塩,鍬,瀬戸物,ぬりもの,ろうそく,紙,くり,柿,なし,たばこ,うど,わらび,ごぼう,大根,いも,ねぎ,ささぎ〉など,城下町と,その周辺の農民が必要とするものが売買されている。1665年(寛文5)の会津高田村の市では,〈布,木綿,真綿,紙,米,大豆,万穀物,編菜,葛ノ葉,炭,薪,鍬ならびに鍬柄,斧の柄,臼,杵,柏,箕,蓑,菅笠,摺臼,のぼう,はた,たばこ〉その他であった。こうした商品を市に持ち出すものとして生産者のほかに専門の商人がいた。1675年の武蔵国多摩郡新町村(青梅市新町)の市へは,たかみせ衆,いもうじ衆,大物衆,かぞ売衆,石売衆,塩売衆,酒売衆,あい物衆が出ることが見込まれていた。やや後になるが1742年(寛保2)に設立されることになった甲斐国都留郡上野原宿の市では,細座(糸,繭,蚕種),高見世座,鍛冶座,紙座,麻座,大物座,穀座,肴座,茶座,塩座,薪竹長木木皮座に座割りしている。
近世初期には市に出る商人の多くは,商人頭のもとに組織されていた。これらの商人団は領国経済の形成に当たって城下町の商人頭に統括されていった。このような商人に加えて近隣の農民が生産物を市に出した。会津の古町村(福島県南会津町,旧伊南(いな)村)の市では秋になると市日ごとに南の山郷伊北から馬に米を積んで売りに来るものが集まった。古町村ではこれらの米売りに対し,宿の払いを馬1頭ならば米2升,3頭も引くものは4升を払わせた。しかし貞享(1684-88)のころに,伊北の米を皆古町へ運んだといわれた売米も,少しばかり出るという状態になり,農民が生産物を売るために市へ出るのは遠のいていった。市を立てる村や町は,市に店を出すものから〈みせ賃〉を取った。武蔵国新町村では1675年に,市に出る商人から業種に応じて32文ないし64文の雑用(ぞうよう)を徴収することをきめているが,会津の田島の市では貞享ころに盆前節季の〈見せ賃〉として内見世にいるものからは50文,外にいるものからは10文あるいは20文を取っていた。近世後期にも店賃の徴収は行われ,寛政(1789-1801)の例では中山道深谷宿が7月,12月の2回,市日2日ずつ,市用に出るもの1人につき〈津料〉6文を徴収していた。幕末の例であるが武蔵国川越城下町では問屋場の久右衛門が問屋給分のほかに,毎年7月と12月の市日に,川越の市へ集まって店を出すものから〈つり銭〉と称する店賃を取り立てて問屋給分に加えていた。市を立てる町や村に対し,夫役や年貢が課されていた。1597年(慶長2)に設立された武蔵国高麗(こま)郡高麗町(埼玉県日高市)では,市役として,この町にある代官陣屋の諸用をつとめた。また武蔵国多摩郡新町村は,青梅にある代官陣屋で,年貢として徴収した漆の番をすることを市役として負担していた。こうした夫役は,後にほとんど小物成として貨幣納に変えられている。《地方凡例録》は市に対する課税として市売分一(ぶいち)金と市場運上をあげている。市売分一金は市で取引される商品の売上高に応じて,その20分の1あるいは30分の1を徴収するものであり,市場運上は年々定額を上納するものが多かった。甲斐国上野原宿では幕末ころに毎月1,6の日に立つ市について,冥加金として1ヵ月金2分ずつを上納していた。
近世中期以降になると六斎市で消滅するものが増加する。この市の消滅は商業の衰退を示すものではなく,むしろ商業の発展の結果であった。会津古町村では貞享ころになると,これまでこの市に出されていた布,真綿,麻等が,村々を回る商人に買い付けられて市には出ず,1月から7月ころまでは市も立たない状態になったという。ここではこれらの特産物に対する需要が高まり,これを積極的に買い集める商人が出現して,市をなりたたなくさせたのであろう。さらに町の常設店舗が増加し,農村にも農間商人が出現して,常時,商品の売買が行われるようになり,市の衰退を促した。商業の発展が市を衰退に導いたのである。しかしその一面では特産物の生産地帯に絹市 や木綿市など,その地域の特産物を集荷する市が出現する。武蔵国青梅の六斎市は,近世後期になると月6度の市のうちの4度の市がこの地方の特産物である青梅縞の取引をする〈島市〉になり,日常生活用品を取引する市は残りの2度だけになって〈間(あい)の市〉と呼ばれるようになった。近世中期以降に成立した特産物の市は,三都の問屋の,産地集荷機関として利用された。三都の問屋はこれらの市に買方を派遣し,あるいは産地の問屋を買宿に指定して集荷に当たらせたのである。六斎市はしだいに退化し,日常生活用品を売買する市は盆市,暮市など年2回の市となったり,または寺社の縁日・祭礼の市となって娯楽の性質を帯びるようになった。こうした市に店を出す商人として香具師(やし)が組織化されていき,香具師商人は1735年(享保20)十三香具仲間として公認された。十三香具は,居合抜,曲鞠,唄廻し,覗,軽業,見世物,懐中掛香具売,諸国妙薬取次売,江戸京都大坂田舎在々迄売通売,辻療治膏薬売,蜜柑梨砂糖漬売,小間物売,火打火口売の13業種の商人で,演芸的色彩が濃く,各地の市を回って営業した。香具師の仲間による統制が強まると,店賃の徴収や,店の場所割りも,その仲間が行うことが多くなった。
青物市 や魚市 は,その商品の性質から,大量に取引される都市に成立した。近世都市では都市民の生活が展開する中でその組織化が進み,問屋・仲買・小売商人の取引する規模の大きい市と,生産者が直接消費者に販売する規模の小さい市に分化した。牛馬を売買する市も各地に成立した。馬は領主の軍事的要求に基づいて求められ,はじめは,こうした要求から立てられた馬市が多かったが,近世の経済の発展は馬の民需を高め,農馬,駄馬の売買が大きな地位を占めるようになった。馬市には東北地方の馬産地に成立したもの,東海道の宿場町池鯉鮒(ちりゆう)のように馬産地と需要地を中継するものとして成立したもの,江戸の浅草のように需要地に成立したものなどがある。市に馬を出すものも,馬を求めるものも広い範囲から集まり,池鯉鮒と同じような役割を果たした下野国栃木の馬市には,関東各地から馬喰(ばくろう)が集まった。馬市は春か秋に開かれるものが多く,会津の伊南古町組塩川村の2歳駒市は1646年(正保3)に開かれ,毎年9月1日から10日過ぎまで立てられた。池鯉鮒の馬市は4月25日から5月5日までであり,尾張国一宮では春・秋の2季に馬市が立てられた。牛市は和牛産地の中国地方に多く立った。伯耆国大山の牛馬市は大山神社の春・秋の大祭日を中心として開かれ,石見国の阿須那市(島根県邑南町,旧羽須美村)は阿須那神社の祭礼に当たって開かれたように,この地方の牛馬市は神社・寺院の祭礼・縁日に立てられたものが多い。 執筆者:伊藤 好一
中国 中国では,市という言葉は,古典の中にもしばしば登場し,重視されていた。《易経》の繫辞伝によれば,神農は〈日中に市をなし,天下の民を致し,天下の貨を聚(あつ)め,交易して退き,おのおの其の所を得た〉とし,《孟子》などに見える〈市に帰(おもむ)くが如し〉とは,市場に赴くように先を争っていくことなのであった。国都の造営に当たっては,〈面朝後市〉つまり朝廷を南面する天子の居処の南におき,市を北におくものとされ,〈朝市〉つまり朝廷と市場は人目につく場所の代表格なのである。春秋戦国時代から秦・漢にかけての中国の聚落形態は,ほぼ都市国家のかたちをとったと考えられ,そこでは市がギリシアのアゴラ,ローマのフォルムに似た役割を果たした。市は単に商品を売買するための特定の地区にとどまらず,娯楽場であり,社交場であり,ときには政治運動の場でもあった。
市という語は,商店の立ち並んだ一定の商業区域を指す場合と,特定の場所に日を定めて開く定期市を指す場合があった。秦・漢から唐にかけての時代には,国都はもとより,州県城などの地方の政治的都市にも,城郭内の一区画を限って市に指定し,店舗を設けて商業を営むことを許した。たとえば漢代の長安 では,城内に東市と西市があり,すべて国家の監督のもとに運営され,市令以下の官吏がおかれ,市場の流通秩序の維持にあたって,市租あるいは市籍租とよぶ一種の営業税を徴収した。市の内部では同業者が店舗を並べて肆(し)あるいは列とよぶまとまりをなしていたが,その活動はだいたいにおいて個別的であり,相互扶助の機能を有する団体の結成は見られない。このような市の制度は,魏晋南北朝から隋・唐時代を通じて行われ,市租の制度も,北魏では徴収しない時期もあったがおおむね存続した。唐の長安城にも東市と西市がそれぞれ左街と右街のやや北寄りにおかれ,東市は隋の大興城の都会市,西市は利人市をうけついだものである。これら東西市については,発掘が行われて,その構造がかなり明らかとなった。
まず東市の規模は南北が1000m余,東西が924m,西市は南北1031m,東西927mの長方形を呈し,市の内部には南北と東西に走る幅16mの街道が2条あり,四街が交差して9個の長方形の区画をともなった井字形をなしている。中央の区画に市署,平準署といった役所がおかれたものと考えられ,その他の長方形の街に面した部分に店舗が設けられたようであり,下水道も完備していた。唐末までは,これら両市においてのみ商業が営まれたので,大いににぎわった。物資運搬のための運河が入っていた両市は,一日中は開かれていず,日中(正午)に鼓300を合図にして開かれ,日没前に鉦300を合図にして閉じられた。東市の雑踏は西市のにぎわいに一歩ゆずり,西市では付近に外国からの流寓者が多かったため,ペルシアやアラビアの商人,西域地方出身の歌姫や軽業師などが人目をひいていた。市は人の集まるところなので,古来,死刑の執行される場所とされたが,唐代でも同じであった。市の内部で同種同業の商店が店舗を並べた点は漢代と同じであるが,唐代では同業者ごとに〈行(こう)〉という団体を結成し,ギルドのような運営がなされた。東市の〈肉行〉〈鉄行〉,西市の〈絹行〉〈薬行〉などの名が伝えられており,行に属する商人は行人とよばれ,それぞれ行頭とか行首とよばれる者によって監督された。このような行は,国都の長安のみではなく,地方の政治都市でも作られたのであって,蘇州の〈金銀行〉,揚州楊子県の〈魚行〉が文献に見え,トゥルファン(吐魯番)出土文書や,河北省房山で発見された仏典石経の題記に,唐代の行関係の史料が見いだされる。
商業区域としての市の制度は,唐の中ごろ以後しだいにゆるんで他の坊にも進出し,北宋になると坊制の廃止に乗じて商店は街頭にも現れ,南宋になると都市内のいたる所に見られるようになり,夜間営業の禁もおのずからすたれた(開封 )。一方,南北朝時代から唐・宋時代にかけて,地方の小集落や州県城の郊外の交通の便利な場所に〈草市〉とよばれる商業地域が現れ,ときには〈鎮〉とよぶ行政単位に昇格することもあった。〈草市〉も元来は定期市であったらしいが,宋以後の市制度の崩壊後,〈定期市〉が地方都市や郷村のみならず国都でも見られるようになった。定期市は集,市,市集などとよばれ,華南地方では墟あるいは墟市とよばれ,寺廟の行事と結びつくと廟市あるいは廟会とよばれた。定期市が開かれるときを集期あるいは会期というが,1年に何回か開かれる年市と,10日ごとに何回か開かれる旬市と,毎日開かれ日常品を扱った日市があった。つまり,西洋の週市のかわりに旬市があったことになる。交通の便のある河畔や橋畔などに,仏寺や道観,そして廟の祭日などを利用してにぎわった定期市は,そののち元・明・清の時代を通じてますます盛んとなったのであって,たとえば旧中国の北京では,東城の隆福寺,西城の護国寺,白塔寺,外城宣武門外の土地廟が四大廟会として有名であった。ちなみに定期市は,一般的に華北や華南に多く,華中でもとくに長江(揚子江)下流域ではかえって少なかったといわれる。 →都市 執筆者:礪波 護