阿蘇庄(読み)あそのしよう

日本歴史地名大系 「阿蘇庄」の解説

阿蘇庄
あそのしよう

阿蘇一郡を荘域とした郡名荘園。史料上、阿蘇庄と記される例は少なく、所領目録などでは阿蘇社が同義語として使われ、阿蘇本社領を意味した。寛弘八年(一〇一一)二月一一日の阿蘇郡四境注文写(阿蘇家文書)の外題に「任先年注文所成庁宣也、承暦二年二月十四日 大介源朝臣判」と国司庁宣が記され、寛弘八年の四境注文をもって承暦二年(一〇七八)に国免庄として成立したと推定され、元弘三年(一三三三)一一月四日の雑訴決断所牒(阿蘇神社文書)に「阿蘇社大宮司惟直申社領阿蘇庄四至堺事、右任承暦国宣、可打渡彼堺」と記される。

〔本家と領家〕

平治元年(一一五九)九月二九日の太政官牒案(安楽寿院古文書)で国使入庄と勅事・院事・国役停止を命ぜられた安楽寿院領一一ヵ所のうちの末社二ヵ所の項に「壱処字阿蘇庄 在肥後国」とあり、一三世紀中頃の安楽寿院領諸庄園所済注文写(同文書)に「肥後国阿蘇庄 中院右大臣雅定、少将入道円乗―正三位家定」とある。おそらく立荘時の国司源朝臣の仲介で村上源氏の久我雅実かその子中院雅定に寄進され、さらに鳥羽法皇に寄進され安楽寿院領として施入されたものと思われ、中院家は領家職、安楽寿院が本家職を有した。白河院政期の村上源氏の勢力伸張を背景とするものであろう。阿蘇大宮司は社家の長として祭祀と社領を統轄するとともに荘官を兼務するようになった。平安時代末と思われる阿蘇大宮司宇治惟宣解(阿蘇家文書)に「甲佐社除定」と年貢収支報告の文頭で注記していることは、甲佐社(現上益城郡甲佐町)も阿蘇社と同じ領家支配下にあったものと思われ、また嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院御領目録(竹内文平氏所蔵文書)の安楽寿院領に次のようにある。

<資料は省略されています>

万里小路大納言入道(師親)とその孫で養子となった北畠親房は雅定の子雅通系であり、阿蘇社の守忠は雅定の弟雅兼の子で、雅定の猶子となった定房の子孫である。甲佐社や郡浦社が阿蘇社の末社となるのは一二世紀に入ってのこととみられるので、阿蘇四社領を含めた形で村上源氏が領家職を得るのは、雅実よりも雅定の代ではないかと推測すると、先の安楽寿院領諸庄園所済注文写で阿蘇庄の領家を「中院右大臣雅定」と記入して、次の流祖の定房を省略して円乗―家定と注記している意味も理解できる。すなわち、雅定は入手した阿蘇本社(領)・健軍社(領)・甲佐社(領)・郡浦社(領)神宮寺(領)の領家職のうち、甲佐社・郡浦社・神宮寺を実子雅通に譲り、阿蘇社・健軍社を猶子定房に譲った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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