日本歴史地名大系 「阿蘇庄」の解説
阿蘇庄
あそのしよう
- 熊本県:阿蘇郡
- 阿蘇庄
〔本家と領家〕
平治元年(一一五九)九月二九日の太政官牒案(安楽寿院古文書)で国使入庄と勅事・院事・国役停止を命ぜられた安楽寿院領一一ヵ所のうちの末社二ヵ所の項に「壱処字阿蘇庄 在肥後国」とあり、一三世紀中頃の安楽寿院領諸庄園所済注文写(同文書)に「肥後国阿蘇庄 中院右大臣雅定、少将入道円乗―正三位家定」とある。おそらく立荘時の国司源朝臣の仲介で村上源氏の久我雅実かその子中院雅定に寄進され、さらに鳥羽法皇に寄進され安楽寿院領として施入されたものと思われ、中院家は領家職、安楽寿院が本家職を有した。白河院政期の村上源氏の勢力伸張を背景とするものであろう。阿蘇大宮司は社家の長として祭祀と社領を統轄するとともに荘官を兼務するようになった。平安時代末と思われる阿蘇大宮司宇治惟宣解(阿蘇家文書)に「甲佐社除定」と年貢収支報告の文頭で注記していることは、甲佐社(現上益城郡甲佐町)も阿蘇社と同じ領家支配下にあったものと思われ、また嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院御領目録(竹内文平氏所蔵文書)の安楽寿院領に次のようにある。
万里小路大納言入道(師親)とその孫で養子となった北畠親房は雅定の子雅通系であり、阿蘇社の守忠は雅定の弟雅兼の子で、雅定の猶子となった定房の子孫である。甲佐社や郡浦社が阿蘇社の末社となるのは一二世紀に入ってのこととみられるので、阿蘇四社領を含めた形で村上源氏が領家職を得るのは、雅実よりも雅定の代ではないかと推測すると、先の安楽寿院領諸庄園所済注文写で阿蘇庄の領家を「中院右大臣雅定」と記入して、次の流祖の定房を省略して円乗―家定と注記している意味も理解できる。すなわち、雅定は入手した阿蘇本社(領)・健軍社(領)・甲佐社(領)・郡浦社(領)・神宮寺(領)の領家職のうち、甲佐社・郡浦社・神宮寺を実子雅通に譲り、阿蘇社・健軍社を猶子定房に譲った。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報