隈田村(読み)くまたむら

日本歴史地名大系 「隈田村」の解説

隈田村
くまたむら

[現在地名]西有家町須川名すかわみよう里坊名さとぼうみよう龍石名たついしみよう長野名ながのみよう有家久保くぼ

現西有家町域の南西部に位置し、南部は海に臨む。東を有家川、西を龍石川が流れる。龍石名の地内に殿様とのさま道が通り、道筋首越くびこえ坂という急坂がある。中世、龍石名に小松崎こまつざき城が築かれた。長野名の十一面観音堂に永禄九年(一五六六)銘の阿弥陀三尊磨崖仏が刻まれている。須川名のほか、里坊名の切支丹きりしたん谷にもキリシタン墓碑(県指定史跡)があり、龍石名の向井竜むかいたつの共同墓地にも三基のキリシタン墓碑が残る。寛永一四年(一六三七)島原の乱には有家村の家数七七〇・人数四千五四五の全員が一揆方として参加しているが(島原一揆松倉記)、南目筋の諸村はほとんど無人の地になったとされる。殿様道の傍らにある首塚(自然石の石塔)は乱の戦死者を埋葬したものという。幕府が村方の復興のため九州の諸大名に一万石に一戸の割合で島原への移住を命じたのをうけ、肥後熊本から尾崎おさきに、薩摩鹿児島から龍石に移住したとされ、また小豆しようど(現香川県)からは須川に来住したと伝え、それによって素麺作りが根付いたと伝える。

江戸時代は島原藩領の南目筋に属する有家村のうち西筋(西方とも)で、慶長国絵図では「有家」のうちと考えられる。正保二年(一六四五)の高来郡内高力氏領分図には隈田村の記載はなく、有家内として記される久保村二四七石余・須川村一六三石余・立石たついし村四一一石余・長野村二八六石余が当村内と考えられる。承応元年(一六五二)有田ありた(現有家町)有家町ありえまち村・隈田村の三村に分れ、寛文五年(一六六五)村号を公称するが、西方にしかた(西筋)と称された隈田村は法恩寺ほうおんじ志戸しとう・須川・西之浦にしのうら・長野・龍石の六名にわたる村域であるという(「有田村庄屋石橋家記録」有家町郷土誌)


隈田村
くまたむら

[現在地名]有家町久保くぼ、西有家町須川名すかわみよう里坊名さとぼうみよう龍石名たついしみよう長野名ながのみよう

有田ありた村の南西に位置し、西を有家川が南流する。もと有家村のうちであったが、三ヵ村に分立したうちの一ヵ村で、現西有家町須川名・里坊名などを含む。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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