北有馬村(読み)きたありまむら

日本歴史地名大系 「北有馬村」の解説

北有馬村
きたありまむら

[現在地名]北有馬町今福名いまぶくみよう谷川名たにがわみよう田平名たびらみよう西正寺名さいしようじみよう・坂サカ上下名うえしたみよう折木名おりきみよう

現町域のすべてを村域とする。有馬川が流れ、大手おおて川・浦口うらぐち川・高江たかえ川・西正寺川・坂下さかした川などの小河川を集めて内海に注ぐ。北西部の坂上下名に原山はらやま前谷まえだん後谷うしろだん釘山くぎやま元平もとびらなど、中央部の今福名に堀切ほりぎりつじ横道よこみち沢高さわたか轟川とどろきがわ面無おもなし山岳さんたけみねなど、その西の西正寺名に八石はちいし八反間はつたんま中村なかむら灰木はいぎ大丸だいまる大谷おおたに矢次やつぎ清水しみず・下湯・西平にしびら山之神やまのかみなどがある。東部の田平名に郷屋ごうや内中尾うちなかお出口いでぐち・面広・北谷きただに東橋口ひがしはしくち金蔵寺こんぞうじなど、その西の谷川名に矢櫃やびつ西田平にしたびら浦口うらぐち三尺町さんじやくまち本町ほんまち日野江ひのえ橋口はしぐちなど、西部の折木名に坂山さかやま平山ひらやま奥野おくの小谷こだん割石原わりしばる路木ろぎなどがある。中世は有馬庄のうちで、庄内に有馬氏が館を構えたという。谷川名には有馬氏の居城日野江ひのえ城が築かれ、政治・軍事的拠点としてのみならず、商業都市でもあった。一六世紀後半より一七世紀初めにかけて南蛮文化受容の一大中心地という観があった。

西田平の中屋敷なかやしきに「慶長拾伍年」「流しや生年二十歳」銘の花十字扁平蓋石型のキリシタン墓碑があり、地元ではジョウロウ様の墓(女郎墓)とよばれるが、これは上臈墓の転訛と考えられることから有馬氏に近いキリシタンの墓とされる。八良尾はちらおのキリシタン墓碑とともに県指定史跡。また多数の寺院が建立されていたことは、折木名の松尾まつお寺、西正寺名の西正寺・金剛こんごう寺、田平名の金蔵寺正行しようぎよう寺、今福名の無量むりよう寺などの地名や山川やまかわ寺跡・仏光ぶつこう寺跡の所在によってうかがえ、富の蓄積の少なくなかったことを物語る。慶長一七年(一六一二)有馬晴信は岡本大八事件によって甲斐国に流されてまもなく処刑され、その後を継いだ直純がキリシタン弾圧を強行したため、同一九年には有馬の信徒らが捕らえられ、拷問のうえ殉教した。同氏の日向国あがた(現宮崎県延岡市)への転封に伴い島原地方は一時期幕府領となった。元和二年(一六一六)六月、島原に入部するため松倉重政が「北有馬田平町」に上陸したという(有馬古老物語)。同三年のイエズス会管区長のコウロス徴収文書に「有馬」の奥村道可理あん・益田治部少志やかうへ・江崎弥太夫かす春・松島弥右衛門尉まちやす・北野彦三郎はう路など、キリシタンの有力者と考えられる一八名が署名している。同四年からの島原城下の建設に伴い、別当(町年寄)の隈部杢左衛門が日野江城下の有馬の町民を率いて島原に移住したと伝えている(「深溝世紀」文政二年一〇月条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報