青木宣純(読み)アオキ ノリズミ

20世紀日本人名事典 「青木宣純」の解説

青木 宣純
アオキ ノリズミ

明治・大正期の陸軍中将



生年
安政6年5月19日(1859年)

没年
大正13(1924)年12月12日

出身地
日向国佐土原(宮崎県)

別名
幼名=平太郎

学歴〔年〕
陸士(第3期)〔明治12年〕卒

経歴
佐土原藩士の長男として生まれる。明治12年砲兵少尉に任官。17〜20年中国に派遣され中国語を修得。24〜26年ベルギー留学。日清戦争では第一軍参謀として出征。33年北清事変に際しては天津民政長官を務めた。陸軍を代表する中国通として知られ、日露戦争前夜の36年清国公使館附武官として赴任諜報・謀略活動に従事。馬賊を使って後方攪乱などを行って側面から軍事行動を支援し日露戦争勝利貢献、“謀略将軍”と呼ばれた。大正2年中将に昇進、旅順要塞司令官。8年予備役に編入。この間、6年袁世凱政府の軍事顧問、12年中華民国大総統・黎元洪の軍事顧問となり、日中親善に尽くした。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「青木宣純」の解説

青木宣純

没年:大正13.12.12(1924)
生年:安政6.5.19(1859.6.19)
明治期の陸軍軍人薩摩藩支藩である佐土原藩(宮崎県佐土原町)の藩士青木新蔵の長男で,娘は陸軍中将磯谷廉介の妻。陸軍幼年学校,陸軍士官学校に学び山砲2大隊付となる。明治17(1884)年砲兵中尉,参謀本部付の資格で中国に派遣され,20年まで中国語を修得し,多くの知己を得た。帰国後陸士教官,参謀本部局員を経て,24年から26年までベルギーに留学,帰国後参謀本部第2局員。日清戦争(1894~95)では山県有朋の率いる第1軍の参謀を務め,田村怡与造と親しくなった。30年から33年まで清国公使館付となり,袁世凱(のち中華民国初代大総統)らと親交を結び,陸軍を代表する中国通となった。日露間が険悪となった36年秋,参謀次長児玉源太郎の強い要請を受け,3回目の清国公使館付となって,諜報・謀略活動を行うことになった。公使館を本部として,日本軍人,中国人を組織,袁世凱を味方に入れ,馬賊を使嗾して情報収集,鉄道・電話線の破壊,後方かく乱などを実施,日露戦争(1904~05)での日本の勝利に多大の貢献をなし,謀略将軍と仇名された。大正2(1913)年中将に進み旅順要塞司令,12年黎元洪軍事顧問となったが,帰国の途中病死した。<参考文献>佐藤垢石『青木宣純』

(田中宏巳)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「青木宣純」の解説

青木宣純 あおき-のりずみ

1859-1923 明治-大正時代の軍人。
安政6年5月19日生まれ。明治24年参謀本部付としてベルギーに留学。日清(にっしん),日露両戦争に出征,のち清国公使館付武官。大正2年陸軍中将に昇進,旅順要塞(ようさい)司令官となる。のち中華民国大総統黎元洪(れい-げんこう)の軍事顧問をつとめた。大正12年12月12日死去。65歳。日向(ひゅうが)(宮崎県)出身。陸軍士官学校卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「青木宣純」の解説

青木 宣純 (あおき のぶずみ)

生年月日:1859年5月19日
明治時代;大正時代の陸軍軍人。中将;清国公使館付
1924年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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