黎元洪(読み)レイゲンコウ

デジタル大辞泉 「黎元洪」の意味・読み・例文・類語

れい‐げんこう【黎元洪】

[1866~1928]中国軍人政治家湖北省黄陂こうひ県の人。1916年袁世凱えんせいがいの死により中華民国第2代大総統となるが、翌年辞職。1922年、大総統に再選されたが、翌年、軍閥に追われて政界引退リー=ユアンホン。

リー‐ユアンホン【黎元洪】

れいげんこう(黎元洪)

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精選版 日本国語大辞典 「黎元洪」の意味・読み・例文・類語

れい‐げんこう【黎元洪】

  1. 中国、清末・民国初期の軍人、政治家。湖北省黄陂出身。辛亥革命後、南京臨時政府副総統。一九一六年、袁世凱死後、中華民国第二代大総統。翌年辞職し二二年に再選されるが、軍閥に追われ失脚した。(一八六四‐一九二八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「黎元洪」の意味・わかりやすい解説

黎元洪
れいげんこう / リーユワンホン
(1866―1928)

中国、中華民国前期の軍人、政治家。湖北省黄陂(こうひ)の生まれ。字(あざな)は宋卿。北洋水師学堂卒。ドイツ人の教官について、湖北新軍を訓練し、新軍においてしばしば湖北省の革命党員の活動を弾圧した。1911年の辛亥(しんがい)革命における武昌蜂起(ぶしょうほうき)後、軍政府の鄂(がく)(湖北省の別称)大都督(だいととく)に任じられ、漢口の革命戦争を鎮圧南京(ナンキン)臨時政府の成立にあたって副大総統に選ばれた。袁世凱(えんせいがい)の政権奪取に際しては袁に協力した。1914年袁が国会を解散、約法(やくほう)を改竄(かいざん)し、参政院を設けた際、院長に任命された。袁の死(1916)後、副大総統から大総統に昇格。その後国務院総理の段祺瑞(だんきずい)と争い、その地位を追われた。1923年、直隷派系の軍閥の支援を受け大総統に返り咲いたが、同年直隷派系の軍閥に追われてその地位を失った。のち天津(てんしん)で病没した。

[山下龍三]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「黎元洪」の意味・わかりやすい解説

黎元洪
れいげんこう
Li Yuanhong; Li Yüan-hung

[生]同治3 (1864).10.19. 湖北,黄陂
[没]1928.6.3. 天津
中国,中華民国初期の軍人,政治家。フーペイ(湖北)省黄陂県の人。字は宋卿。天津水師学堂卒業。張之洞の知遇を受けて,湖北新軍混成協統領に累進辛亥革命の武昌蜂起の際は,革命軍に推されて湖北都督につき,1913年南北和議成立後,袁世凱のもとで副総統となり,反革命的行動をとった。袁の死後大総統となったが,段祺瑞と対立し,1917年に張勲復辟運動を起こして辞任。1922年第1次奉直戦争後,直隷派に推されて再び大総統に就任。翌 1923年曹こんに追われて下野し,天津に引退して終わった。

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百科事典マイペディア 「黎元洪」の意味・わかりやすい解説

黎元洪【れいげんこう】

中国,清末民国初期の軍人,政治家。湖北省の人。日清戦争での活躍で張之洞の信を得,湖北新軍旅団長となる。次いで辛亥(しんがい)革命のときには推されて湖北総督から南京臨時政府副総統に就任。1913年進歩党の理事長。袁世凱の死後大総統。1917年張勲による宣統帝の復辟運動で日本大使館にのがれ辞任。1922年第1次奉直戦争(北洋軍閥)後,直隷派に推され再任したが,翌年失脚,引退。
→関連項目武昌起義

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改訂新版 世界大百科事典 「黎元洪」の意味・わかりやすい解説

黎元洪 (れいげんこう)
Lí Yuán hóng
生没年:1864-1928

中国の軍人政治家。湖北省黄陂県の人。字は宋卿。北洋水師学堂に学び新軍にあって出世したが,非北洋系である。武昌蜂起(辛亥革命)で湖北軍政府都督に擁立され,中華民国では孫文,袁世凱のもとで副総統となった。けだし孫文に対しては旧勢力を,袁世凱に対しては革命勢力を代表したのであって,時代が黎元洪に両派の代表の役割を演じさせたのである。袁世凱の死後,2度大総統位(1916年6月~17年7月,1922年6月~23年6月)についたが,それは北洋軍閥政権が一歩譲歩を強いられた時のことである。のち天津で病没した。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「黎元洪」の解説

黎元洪(れいげんこう)
Li Yuanhong

1864~1928

清末民国初期の軍人。湖北省黄陂(こうひ)県の人。張之洞(ちょうしどう)のもとで立身し,辛亥(しんがい)革命のとき推されて武昌で独立,湖北都督となった。南京臨時政府の副総統となり,ついで進歩党の理事長となって袁世凱(えんせいがい)をたすけ,国民党と対立した。1916年袁の死後,大総統に就任,段祺瑞(だんきずい)と対立し,17年の張勲(ちょうくん)の復辟(ふくへき)で辞任した。22年直隷派に推されて再び大総統となったが翌年追われ,以後政界を離れた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「黎元洪」の解説

黎 元洪
れいげんこう

1868〜1928
清末〜中華民国初期の軍人・政治家
ドイツ留学をへて,張之洞 (ちようしどう) のもとで新軍の養成にあたった。1911年の武昌蜂起の際,強要されて革命軍に投じた。1913年袁世凱 (えんせいがい) の下に副総統となり,袁の死後16年に第2代大総統になるが,段祺瑞 (だんきずい) と対立して辞職。1922年第1次奉直戦争後,直隷派に推されて再び大総統に就任し,翌年曹錕 (そうこん) に追放され,引退。

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世界大百科事典(旧版)内の黎元洪の言及

【辛亥革命】より

… 南方の革命側は孫文の帰国をまって12年1月1日,孫文を初代臨時大総統とする中華民国臨時政府(南京臨時政府)を組織した。副大総統には〈首義〉の区,湖北の都督黎元洪(れいげんこう)が選ばれた。北京,南京とも手づまり状況のもとで孫・袁間に電報談判が行われ,清国皇帝の退位と袁世凱の共和制賛成を条件に,孫文は大総統位を袁世凱に譲ることにした。…

※「黎元洪」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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