須崎町(読み)すさきまち

日本歴史地名大系 「須崎町」の解説

須崎町
すさきまち

[現在地名]博多区須崎町・下川端町しもかわばたまち

対馬小路つましようじ町の通りの一筋西の南北道に沿う両側町。須崎町上・須崎町中からなる。須崎は洲崎とも記される(「続風土記」「地理全誌」など)。南は唐津街道橋口はしぐち町・麹屋番こうじやばんの通りで、北は博多浜の船入りに接する。当町の通りの一筋西の通りは、那珂川沿いに南北に走る川端町いわし町の通り(福岡博多近隣古図)。九州文化史研究所蔵の博多古図では、南北に走る当町の通りに南から「スサキ町」「中」「下」とあり、川端町・鰯町の通りには「川端町下」「イハシ町」と記される。また「続風土記」では一帯は洲崎町上・洲崎町中・洲崎町裏町と川端下の四町で構成されている。「津要録」によれば、延享三年(一七四六)に「川端町下」は一帯の俗称であった「いわし町」に改称し、宝暦二年(一七五二)には「須崎町裏下」が同じく俗称の鰯町の町名を採用して「いわし町下」に改め、当時の「いわし町」(かつての川端町下)は「いわし町上」に改称したという。博多町の北西部浜側を占める当町・鰯町の一帯は、古くは須崎町上・同中・同下と川端町下、あるいは須崎町上・同中・同裏町と川端町下といった町々で編成されていたが、のち須崎町上・同下と鰯町上・同下の編成になったと考えられる。正慶二年(一三三三)三月一三日、菊池武時らは鎮西探題討伐のため挙兵して博多中に放火し、おき浜を経て櫛田くしだ浜口に出たが、討っ手の武蔵四郎らが息浜の「スサキ」を回って追いかけたため合戦となり、武時らは戦死した(「博多日記」同日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報