須賀郷(読み)すかごう

日本歴史地名大系 「須賀郷」の解説

須賀郷
すかごう

利根川右岸に位置する須賀一帯に比定され、太田おおた庄に含まれる。寛喜二年(一二三〇)二月二〇日の小山朝政譲状(小山文書)に「武蔵国上須賀郷」とみえ、朝政が嫡孫五郎長村に譲与している。須賀郷は上・下に分れ、上須賀郷は小山氏の所領となっていたことが知られる。永徳二年(一三八二)一二月二五日、鎌倉公方足利氏満は勲功の賞として「太田庄内須賀郷半分」を安保憲光に宛行っている。須賀郷が太田庄内に含まれていたことがわかる。また、この宛行は小山義政追討の勲功を賞するものであるから、「須賀郷半分」とは小山氏の所領であった上須賀郷のことであろう。


須賀郷
すがごう

現在の海上うなかみ町と旭市の一帯とされるが、比定地は未詳。「和名抄」の海上須賀すか郷の郷名を継承すると考えられる。建久期(一一九〇―九九)の香取神宮遷宮用途注進状(香取文書)に「加納須賀三郷」とみえ、遷宮作料として三崎みさき(現銚子市)の加納地であった当郷は七〇石を課せられていたが、対捍とされている。永禄三年(一五六〇)野尻のじり宿(現同上)商人中に対して舟木ふなき(現同上)野尻宿に須賀筋の下塩荷を一月一五日に出すように命じられており(一二月一四日「千葉氏判物」下総旧事)、当時製塩が行われていた。


須賀郷
すかごう

「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本・名博本に記載されるが、東急本・元和古活字本では石井いわい郷の次に橘川きつかわが記されている。この橘川は高山寺本・名博本では海上うなかみ郡諸郷の最後尾にみえる。諸本とも訓を欠くが、スカであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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