須賀村(読み)すかむら

日本歴史地名大系 「須賀村」の解説

須賀村
すかむら

[現在地名]平塚市須賀・札場ふだば町・さいわい町・千石河岸せんごくがし高浜台たかはまだい松風まつかぜ町・そではま夕陽ゆうひおか代官だいかん町・久領堤くりようづつみ

南は相模湾に面し、東は相模川を境に高座こうざ柳島やなぎしま(現茅ヶ崎市)、西は平塚新宿ひらつかしんしく、北は馬入ばにゆう村に接する。永禄九年(一五六六)一〇月一六日の北条氏康朱印状(県史三)に「須賀郷」とあり、相模川河口の漁港で、また海上輸送の根拠地でもあった。同一二年三月二〇日の北条氏康朱印状(同書)によれば、須賀郷の「今若」が用田ようだ(現藤沢市)、「とねはう」が打戻うちもどり(現同市)へ逃亡したため「権門之地」であっても国法により召返せとの人返令が「須賀之郷」の清田宛に発せられている。天正二年(一五七四)正月二四日の北条家朱印状(同書)によれば「勢楼道具」として、相模川上流の津久井つくい(現津久井郡津久井町)七沢ななさわ(現厚木市)より採出した「五六」「幡板」などの材木を一時預かることが命じられている。


須賀村
すかむら

[現在地名]宮代町須賀・学園台がくえんだい一―四丁目

古利根川右岸に位置し、南東は百間もんまひがし中島なかじま、南は蓮谷はすや、西は久米原くめはらの諸村、北は同川を挟んで葛飾郡下高野しもたかの(現杉戸町)大宮台地の北東部縁辺に位置し、東側の低地のうち古利根川沿いには自然堤防が発達し微高地となっている。中世には須賀郷に含まれた。鎌倉街道(中道)が通り、当地が古利根川渡河点と考えられる。江戸時代は須加とも記され、百間を冠することもあった。慶長六年(一六〇一)陸奥仙台伊達氏の鷹場に指定される(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。元和五年(一六一九)関東郡代伊奈氏による新田検地が施行された(「武州騎東郡百間内須賀村新田検地帳」戸田家文書)。田園簿には須加村とみえ、田高四五石余・畑高一六〇石余、岩槻藩領。


須賀村
すかむら

[現在地名]羽島市正木町須賀まさきちようすか正木町須賀池端まさきちようすかいけはた正木町須賀本村まさきちようすかほんむら正木町須賀小松まさきちようすかこまつ正木町須賀赤松まさきちようすかあかまつ

もり村・坂丸さかまる村・不破一色ふわいしき村の西に位置する中島なかしま郡の村。大浦おおうら輪中内にあり、美濃路が通る。北と東西は羽栗はぐり郡の村々で、同郡に突き出した形である。弘安五年(一二八二)七月日の浄金剛院領坪付注進状(醍醐寺文書)に「中島郡北条河崎郷須賀村三丁七反大」とみえる須賀村を当地に比定する説があるが、確定できない。ただし河崎かわさき郷を木曾川対岸の現愛知県尾西市一帯に比定する説があるので可能性はある。


須賀村
すかむら

[現在地名]鈴鹿市須賀町・須賀一―三丁目・神戸かんべ八丁目・矢橋やばせ三丁目

神戸城下の東北、町家とほとんど接していて、西方から延びる低位段丘の末端に位置する。この地名は海浜・河岸に多いが、古代鈴鹿川が近くを流れていたと推定されるので、川にちなむ村名かもしれない。神宮の御厨として保安二年(一一二一)建立されたことは建久三年(一一九二)八月の神領注文(神宮雑書)に「須可碕御厨 ○給主兵衛督局 件御厨、往古親王御領、国役免除之地也、白河院御時、被成下 庁御下文、保安二年建立神領之後、供祭之勤無懈怠矣、供祭物 三度御祭御贄米陸斛、起請雑用料拾斛」とあり、古くは親王領で、白河院によって外宮に寄進されたといわれる地である。


須賀村
すかむら

[現在地名]行田市須加すか

下中条しもちゆうじよう村の東にあり、北は利根川に沿う。東から南東にかけては上新郷かみしんごう(現羽生市)、南は荒木あらき村。「風土記稿」・天保郷帳あたりまでは「須賀」の文字を使うことが多く、旧高旧領取調帳・「郡村誌」では「須加」と記す。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に家門侍須賀修理大夫(永一〇〇貫文)が載り、村南東部の屋敷跡は同人居住の跡という(風土記稿)。天正一九年六月松平家忠が一万石を宛行われたが、そのなかに「須賀村」の三千三三三石余が含まれていた(「伊奈忠次知行書立」長崎県片山家文書)。慶長三年(一五九八)一月には「須賀・日向両郷之内」一〇〇石が、松平忠吉家老小笠原吉次に宛行われている(小笠原吉次知行宛行奉書「安得虎子」東京大学史料編纂所蔵)


須賀村
すかむら

[現在地名]嬉野町須賀

雲出くもず川と三渡みわたり川に挟まれた平野部に位置し、川北かわぎた村の南にあたる。小字名に古代条里制に由来する六ノ坪や中世の開墾に由来する天王垣内がある。古代は須可すか郷の郷域にあたり、中世には須可庄の荘域に含まれた。応仁二年(一四六八)五月から六月に足利義視が滞在した積善しやくぜん(応仁記、同別記)には、境内に北畠家臣の佐波近江守の居城と伝える須賀城跡がある。天正一一年(一五八三)の内宮神領本水帳写には「壱石六斗五升同拾貫文長徳拾貫、法楽寺壱石六斗五升 すか」とみえ、供米を出している。


須賀村
すかむら

[現在地名]栄町須賀

酒直さかなお村の北に位置。もとは麻生あそう村と一村で、天正一九年(一五九一)に分郷したという。文久三年(一八六三)の邨方用弁集(山田家文書)によれば、天正一九年の麻生之内須賀村屋敷帳の存在が知られ、屋敷反別一町二反余。慶安二年(一六四九)の高三八四石余(須賀区有文書)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高九一八石余で幕府領。佐倉藩による宝永四年(一七〇七)の新々田検地帳(前掲邨方用弁集)によれば八町一反余・五七石余の新田が開かれている。享保八年(一七二三)より山城淀藩領で、同年の高九七五石余、夫役永一貫四六七文余・山銭永一貫四七文・栗代永六七文・草銭鐚九貫七〇〇文であった(淀藩領郷村帳)


須賀村
すかむら

[現在地名]御宿町須賀

はま村の北西に位置し、東は網代あじろ湾に臨む。須加・須ヶとも記した。慶長二年(一五九七)の御宿郷縄打帳写(御宿町史料)に集落名「須賀」がみえ、屋敷数五。明暦年間(一六五五―五八)御宿村(郷)が四村に分れて成立。延宝五年(一六七七)武蔵忍藩領を分知された旗本阿部氏領(五千石)となる。高二六二石余(「中滝領分知帳」中村家文書)。以降幕末まで同高・同領(旧高旧領取調帳)。宝永三年(一七〇六)の須賀村五人組家別牛馬改帳(御宿町史料)によれば家数九二(高持百姓四二・平百姓四一・水呑九)・人数五三八、ほかに西明さいみよう(最明)寺に僧侶四・俗人三、牛馬二八。


須賀村
すかむら

[現在地名]明和村須賀

利根川左岸にあり、東は川俣かわまた村、北は大佐貫おおざぬき村、西は大輪おおわ村。天正一三年(一五八五)三月二七日の長尾顕長判物(青木氏蒐集文書)によれば、佐野宗綱との合戦に軍功のあった豊島彦七郎に「佐貫之庄須賀之郷之内ニ三千疋」を与えている。近世は初め館林藩領。寛文郷帳に田方一七七石九斗余・畑方一九九石九斗余とある。元禄郷帳では高八八一石一斗余で、旗本島田領などの八給となる。近世後期の御改革組合村高帳では高三九四石余で、旗本筒井・島田領の二給、家数四六。


須賀村
すかむら

[現在地名]平田町須賀

かつ村の西にあり、西を大榑おおぐれ川が流れる。慶長郷帳および元和二年(一六一六)の村高領知改帳に村名はみえないが、勝村の内に含まれていたとみられる。正保郷帳に田八四石余・畑一〇〇石余、無地高九七石余とあり、幕府領。元禄郷帳でも幕府領。文化七年(一八一〇)村明細帳によれば、田一四三石余・畑一三七石余、反別田六町余・畑八町三反余、新田七石余・反別一町四反余。


須賀村
すかむら

[現在地名]鹿島町須賀

北浦の東岸にあり、北は沼尾ぬまお村。天正一九年(一五九一)東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「三百拾石五斗七升 すか」とある。江戸初期に旗本領となり、寛永一〇年(一六三三)の鹿島郡中高改帳によれば、村高は三四一石余で、小川・長谷川両氏が支配した。のち村の一部が麻生藩領となる(寛文朱印留)


須賀村
すかむら

[現在地名]新潟市須賀・坂井さかい一―二丁目・坂井東さかいひがし四―六丁目・小針こばり八丁目・寺尾東てらおひがし一丁目

西にし川左岸に沿って立地し、坂井村に東西を挟まれる。伝えでは、もと東方小針村寄りのツヤに居村があったが、村ぐるみ、坂井村の上坂井と下坂井の間に移転したという。


須賀村
すかむら

[現在地名]佐屋町須依すえ

佐屋さや依田えだの二村とともに佐屋宿とよばれた宿場の一部。西から南に続いて佐屋村、北は内佐屋うちさや村・柚木ゆぎ村に囲まれた海道沿いの村。「徇行記」によれば、概高九五一石余はすべて蔵入地で、田は二四町一反八畝余、畑は一七町四反八畝余。「寛文覚書」に戸数五五、人数三〇二とある。


須賀村
すかむら

[現在地名]吉川町須賀

川野かわの村の西に位置し、村の南西を古利根川が流れる。田園簿に村名がみえ、村高一三六石余はすべてが畑方で、幕府領。古利根川に作場渡しがある。化政期の家数三一でそのうち山崎氏を名乗る旧家吉兵衛家では嘉吉二年(一四四二)の石打箱一個を蔵すると伝えられる(風土記稿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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