日本歴史地名大系 「野尻宿」の解説
野尻宿
のじりじゆく
慶長一六年(一六一一)九月三日、松平忠輝が北国脇往還諸宿に出した伝馬条目(「伝馬宿書出」大古間共有)によって成立をみ、同一〇日には伝馬役などの代償として屋敷分(高一六石五斗)の年貢(三石六斗三升)を免除された。北の
貞享四年(一六八七)四月の宿絵図(上水内郡誌)及び宝永元年(一七〇四)一一月の宿絵図(中村元典氏蔵)によれば、宿場は北と南の端に土手があり、その内側に伝馬屋敷が並び、中間を
野尻宿
のじりしゆく
野尻宿
のじりしゆく
村の中央を南北に流れる野尻川とほぼ十文字に交わって東から
野尻宿
のじりしゆく
野尻宿は
野尻宿が記録の上に現れてくるのは、文禄二年(一五九三)木曾路を通った常陸佐竹家の臣大和田近江守重清の日記で、「又野尻ニテ馬次、同金壱匁うる、より銭八百文請取、同昼食スル、野尻より小黒ニ乗、
慶長六年中山道の宿駅として指定されるとともに、問屋・本陣・脇本陣などが設けられている。元禄五年(一六九二)の「高木伊勢守様御通ニ付福島ヘ宿々ヨリ書上写」(亀子文書)によると野尻宿は「定納米八十五石一斗二升四合、伝馬本役三十人、歩行本役三十人(内五人半ハ歩行役斗勤。此家数〆四十軒両問屋共ニ)、水役三十一軒、町長三丁二十九間」とあり、天保一四年(一八四三)の中山道宿村大概帳には「宿内町並東西江六町三尺、宿内人別九百八十六人、宿内惣家数百八軒」とあり、一五〇年の間に町長だけでも二倍になっており、宿の繁栄ぶりがうかがわれる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報