須走村(読み)すばしりむら

日本歴史地名大系 「須走村」の解説

須走村
すばしりむら

[現在地名]小山町須走

柴怒田しばんた村・水土野みどの新田の西に位置し、西に富士山、北は駿河・甲斐の国境稜線が控える高原地帯を占める。古くから富士の登山口(東口・須走口)であり、また甲州へ向かう籠坂かごさか峠越(旧鎌倉街道)麓集落として発達した。「妙法寺記」の明応九年(一五〇〇)六月条に「富士導者参事無限。関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」とあり、長享の乱により富士吉田ふじよしだ口から登るべきはずの登山者が皆須走へ回ってしまったことが記される。以後も同書には須走に関する記事が続き、永正六年(一五〇九)一二月一六日には「須走蓮長れんちよう寺」(法華宗、現廃寺)の日寿が没したことがみえ、大永六年(一五二六)七月晦日には籠坂峠の麓、梨木平なしのきだいらで甲斐の武田軍と今川・北条連合軍との合戦があり、「須走殿」ほか駿東の有力武将が何人も討死している。さらに天文六年(一五三七)には武田氏が籠坂峠を越えて「須走口」へ出陣し、翌七年一〇月今度は北条方の須走殿と垪和殿が上吉田かみよしだ(現山梨県富士吉田市)へ夜討をかけ、宿中の者を殺害している。

永禄六年(一五六三)三月一九日の葛山氏元朱印状(芹沢文書)に「須走口過書」とみえ、須走口関所を管理する芹沢伊賀守は、葛山氏元から徴収した関銭の半分の六〇貫文の納入荷駄の通過について指示されている。


須走村
すばしりむら

[現在地名]藤島町須走

藤島村の北東方に位置。古称は次走すばしり村。中世富士山麓の須走村(現静岡県駿東郡小山町)からの移住者が開村したという伝承と、保元三年(一一五八)下総国から青木権四郎晴重が、いったん荒川あらかわ(現羽黒町)に落ちてとどまり、その後当地に定住し開村したという伝承がある。当村は以前京田きようでん川左岸の自然堤防上の岸野きしのにあったが、年々浸食がすすみ、いつの頃か現在地に移ったという。


須走村
すばしりむら

[現在地名]笹神村須走

横山新よこやましん村の東にあり、北は赤水あかみず村に接する。天正二年(一五七四)九月吉日の安田氏給分帳(北方文化博物館蔵)によれば、栗山惣右衛門尉に対する給恩地のうちに「五百の居家敷弐間すばしりニあり」とみえる。元和九年(一六二三)の堀直寄知行宛行目録(「堀鉄団公記」所収)には高二八七石五斗余「安田組須走村」とあり、堀定右衛門に宛行われている。宝永四年(一七〇七)頃の山崎組御巡見御案内帳(渡辺家文書)では高三八三石七斗余・田畑反別三二町九反二畝余で、家数一七、男八一・女五八とあり、それぞれ一軒ずつの酒造役米二斗五合・請酒役米一斗二升五合・蒸炉役米二斗がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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