飯南郡(読み)いいなんぐん

日本歴史地名大系 「飯南郡」の解説

飯南郡
いいなんぐん

面積:三一七・〇九平方キロ
飯南いいなん町・飯高いいたか

三重県の中西部にある。北はつぼねヶ岳(一〇二八・八メートル)・三峰山(一二三五・四メートル)などの諸連峰をもって一志郡および奈良県宇陀郡御杖みつえ村に、南は白倉しらくら(一二三六メートル)まよいが(一三〇九・一メートル)をもって多気たき宮川みやがわ村に、東は白猪しらい(八一九・七メートル)さくら峠などで松阪市と多気郡勢和せいわ村に、西は高見山(一二四八・九メートル)国見くにみ(一四一八・七メートル)などの台高だいこう山系を経て奈良県吉野郡東吉野ひがしよしの村・川上かわかみ村と接している。高見山系に源を発する櫛田川は、当郡域を東西に流れ、一部蛇行しながらはちす川など周囲の支流を集め、松阪市域を流れ伊勢湾へ注ぐ。ほぼ櫛田くしだ川の流れに沿って和歌山街道が通り、近世の交通要路となっていた。飯高・飯野いいの両郡が明治二九年(一八九六)合併して飯南郡となった。現郡域は同二二年に多気郡から飯高郡編入された向粥見むこうがゆみ(現飯南町)を除いて、すべて旧飯高郡の郡域に含まれる。発足当時の飯南郡の東半分は現松阪市となっている。

〔原始〕

考古遺跡は、縄文時代・弥生時代のものが櫛田川に沿った地域に分布する。古墳時代のものはみられない。縄文早期のものとして飯南町横野よこのうえ垣外かいと下仁柿しもにがき百合ゆり粥見かゆみあしの各遺跡がある。上ノ垣外・足ヶ瀬両遺跡では、大川式土器または同型式類似押型文土器が出土し、それに伴う有舌尖頭器・石鏃などの石器類がみられる。百合遺跡では黄島式土器とそれに伴う異形局部磨製石器(石英製)・茅山下層式類似土器が出ている。中期のものとして飯南町向粥見地内の波留はる遺跡があり、中期中葉の土器、さらに後期に属する土器、弥生式土器片も出土した。飯高町赤桶あこうみやひがし遺跡は、現在のところ櫛田川流域の縄文式遺跡のなかで最大規模のものである。同遺跡は高見山を境として、西の奈良県吉野町の宮滝みやたき遺跡に対応する位置にあたり、東方への型式波及を考えるうえで、紀ノ川・櫛田川の川筋が紀伊半島を横断する動脈の役割を果していたと思われる。

〔古代〕

飯高国の名は「皇太神宮儀式帳」に「次飯高県造乙加豆知、汝国名何問賜、白、忍飯高国、即神御田并神戸進」とあり、「倭姫命世記」の垂仁天皇二二年「十二月廿八日、遷于飯野高宮、四箇年奉斎、于時飯高県造祖乙加豆知命、汝国名何問賜、答白、意須比飯高国白而、進神田神戸、倭姫命飯高志止白事貴悦賜」と記されている。この倭姫命が四年間奉斎したとされる地が、作滝さくたき(現飯高町)滝野たきの神明宮(滝野神社)跡にあたるといわれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報