改訂新版 世界大百科事典 「石山本願寺一揆」の意味・わかりやすい解説
石山本願寺一揆 (いしやまほんがんじいっき)
1570年(元亀1)から80年(天正8)まで織田信長と戦った一向一揆。石山合戦ともいうが,本願寺の所在地摂津国石山で11年間絶えまなく戦闘があったわけではない。
1568年(永禄11)入洛した信長は70年石山明渡しを要求し,本願寺はこれを拒絶して緊張は激化していた。同年8月信長は摂津中之島に三好三人衆を攻めたが,その後本願寺を攻撃するとの風聞がしきりとなり,法主顕如は諸国門徒に蜂起を指令し,9月12日に信長を攻めた。本願寺が三好・六角・浅井・朝倉・武田と同盟したため,各地の一揆は彼らと結んで信長と戦った。近江一揆は浅井・朝倉と共同して湖西から京都にせまり,願証寺を首将とする長島一揆は尾張小木江城を攻めて信長の弟信興を自殺させた。朝廷や将軍足利義昭を動かした第1次講和によって窮地を脱した信長は,まず71年1月に長島一揆を攻めたが大敗した。近江一揆は六角・浅井とともに国内各地で信長勢と戦った。72年12月に遠江三方原で徳川家康を破って上洛の軍を進めた武田信玄が,73年4月病没して最大の危機を回避した信長は,攻勢に転じて将軍義昭を追放し,朝倉義景ついで浅井長政を滅ぼした。苦境に追い込まれた本願寺は第2次講和を結んだ。
翌年1月越前一揆は信長方諸将の内訌に乗じて一国支配を実現し,本願寺は下間頼照を守護代として下向させた。そして4月に講和は破れ,以後信長の攻勢が続く。長島一揆は海陸からの猛攻をうけて9月に壊滅。75年8月には越前一揆が圧殺され,加賀南部まで征服された。手足を失った本願寺は第3次講和で一時をしのぎ,毛利輝元・上杉謙信と結んで態勢立直しをはかったが,76年4月信長は石山を包囲し,籠城戦となった。7月毛利水軍は信長水軍を破って石山に糧食を搬入した。信長は77年4月に本願寺の後方基地紀伊国雑賀(さいか)を攻めて降伏させ(雑賀一揆),ついで鋼鉄装の大戦艦6隻をもって毛利水軍を撃破して瀬戸内海東部の制海権を奪取した。陸上では羽柴秀吉が中国路に進出して毛利方諸将を下した。78年3月には上杉謙信が急死して本願寺の敗色は濃くなった。別所長治・荒木村重の信長への反逆でも形勢は逆転せず,毛利との連絡もやがて絶たれた。80年閏3月,勅命講和の形をとって本願寺は信長に降伏し,顕如は紀伊国鷺森に退去し一揆は終結した。
石山一揆は最大かつ最後の一向一揆であり,その屈服は信長の天下布武を名実ともに決定的にした。本願寺は護法を旗印に門徒を蜂起させたので宗教一揆的色彩は否定できない。しかし基本は,戦国争覇戦の勝者で剰余生産物の一元的収奪体制の確立をめざす信長と,重層的な職の体系による坊主・土豪連合の支配する本願寺領国および畿内の寺内町網を支配する宗教的領主で,反信長戦線の中心勢力にまつりあげられた本願寺との不可避の対決が石山一揆であり,後者の敗北は兵農分離の方向を決定づけるものであったといえよう。
執筆者:新行 紀一
石山軍記物
石山合戦に取材した歌舞伎狂言・浄瑠璃・講談の一系統。一向一揆最後の抗争と顕如上人の事跡を扱い,浄土真宗の信者を観客として吸収する興行政策から,しばしば興行物として上場,成功をみた。ことに1880年10月大阪角座での《御文章石山軍記》(勝諺蔵作)は,顕如上人三百年忌を記念しての上演で,真宗信者でもあった主演の初世市川右団次(斎入)の当り芸となり,83年9月には東京春木座で再演し,東西本願寺の講中が団体観劇し,〈軍略見事に当り予想以上の景気〉(《続々歌舞伎年代記》)となった。配役は顕如・楠正具・鈴木孫市=右団次,鈴木飛驒守・柴田勝家=実川八百蔵,織田信長・孫市母紀の路=市川鰕十郎など。ほかにも長田秀雄作の戯曲《石山開城記》がある。
執筆者:小池 章太郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報