馬烽(読み)ばほう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「馬烽」の意味・わかりやすい解説

馬烽
ばほう / マーフォン
(1922―2004)

中国の小説家。本名は馬書銘。山西(さんせい/シャンシー)省孝義(こうぎ/シャオイー)県居義(きょぎ/チューイー)村の貧農の家に生まれる。7歳で父が死去、一家は困窮の末、汾陽(ふんよう/フェンヤン)県東大王(トンターワン)村に住む母方叔父の家に移り住み、貧困のなかで育つ。抗日戦で、日本軍が山西に攻め込み学校も閉鎖。奨学金で一年半通った高級小学校をやめ、1938年春16歳で、八路軍に参加、宣伝隊で活動、同年冬、中国共産党に入党。1940年延安(えんあん/イエンアン)の魯迅(ろじん)芸術学院の部隊芸術幹部訓練班と部隊芸術学校で学ぶ。五・四運動(1919)以来の新文学やソ連の革命文学を読み漁(あさ)り、自分も創作を始める。1942年春、短編『第一次偵察(初めての偵察)』が延安『解放日報』に掲載され自信をもつ。1943年晋綏(しんすい/チンソイ)辺区(へんく/ピエンチュー)(抗日根拠地)文連(文学芸術界連合会)の文芸工作隊に所属、多くのルポルタージュを書く。報告文学『張初元的故事(張初元の話)』(1944)は抗戦7周年文芸コンクール2等賞を獲得。1944年秋、『晋綏大衆報』に派遣され、記者兼編集者として活躍、文芸大衆化に熱心な晋綏分区宣伝部秘書長の周文(しゅうぶん/チョウウェン)(1907―52。1930年代からの作家)から指導と励ましを受けて、西戎(せいじゅう/シーロン)(1922―2001)と共著で大衆的長編章回小説『呂梁(ろりょう)英雄伝』(1949)を出版、広く愛読された(章回とは物語の区切りの単位で、章回小説とは一つの物語が数十回あるいは百数十回と語り継がれる形式の長編物語小説をいう)。各地の土地改革に参加しつつ民話の収集・編纂(へんさん)にも努める。1949年第一次文芸代表大会に参加、文連全国委員、文協(中華全国文芸界抗敵協会)理事に選出され、北京定住、月刊誌『説説唱唱』の編集長も兼任する。解放後、土地改革や農業合作化に伴う農民の意識変化を題材に多くの短編を書き、短編集『村仇(かたき同士の村)』(1950)、『金宝娘』(1950)、『一個下賎的女人』(1950)、『周支隊大閙平川(周連隊平川(へいせん/ピンチョワン)で大暴れ)』(1951)、『結婚』(1953)、『韓妹妹』(1954)、『飼養員趙(ちょう)大叔』(1954)、『三年早知道(3年前から判(わか)っている)』(1958)、『我的第一個上級(私の最初の指導者)』(1959)、『太陽剛剛出山』(1960)等を陸続と出版した。1964年、長編伝記小説『劉胡蘭(りゅうこらん)伝』(出版は1978年)を発表。また映画脚本『撲不滅的火炎』(1957)、孫謙(そんけん/ソンチエン)(1920―96)と共作の『新来的県委書記』(1979)、『幾度風雪幾度春』(1984)等を出版。趙樹理(ちょうじゅり/チャオシューリー)らとともに山薬蛋(じゃがいも)派とよばれる山西作家群の代表的作家であった。山西省文連主席、中国作家協会山西分会主席を務めた。

[伊藤敬一]

『三好一訳『呂梁英雄伝・正篇 白樺天皇行状記』『呂梁英雄伝・続編 東洋鬼軍敗亡記』(1951、1952・三一書房)』『黎波監修、倉石武四郎訳『現代中国文学全集第15巻 人民文学篇』(1956・河出書房)』『斎藤秋男編『中国児童文学選3』(1964・牧書店)』『神宮輝夫他編『中国・朝鮮・インドの文学3』(1965・小峰書店)』『小林栄編・訳『中国農村百景 「山西文学」短篇小説集2、5』(1983、1986・銀河書房)』

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