ギリシアの著作家プルタルコスの代表的な伝記作品。日本では一般に《英雄伝》の名で親しまれているが,原題の意味からは《対比列伝》の訳語のほうが正確である。取り上げられているのも必ずしも英雄と呼ぶべき人物ばかりではない。歴史上の,あるいは伝説上の偉大な人物をギリシアとローマから1対ずつ選んで並べ,たとえばギリシアのテセウスとローマのロムルス,アレクサンドロスとカエサル,デモステネスとキケロ,リュクルゴスとヌマというように46人を対比して扱っている。ただし,このほかにも対になっていない独立した4人(アルタクセルクセス,アラトス,ガルバ,オトー)が加えられているので合計50人の伝記から成り立っている。元来はもっと大勢が含まれていたが,ヘラクレスをはじめ他の人物の伝記は失われてしまったと考えられる。作品の一部はローマの友人ソシウス・セネキオQuintus Sosius Senecioに献呈されており,著者がローマに滞在していたトラヤヌス帝の時代(2世紀初頭)に書き始められ,晩年故郷のカイロネイアで完成されたとみなされている。
執筆は必ずしも現在残っているテキストの順に行われたものでないらしいが,対にされている人物にはほとんどの場合なんらかの類似点があり,19対については末尾に両者の比較論が添えられている。この著作を歴史的記述として見る場合には,不正確さや資料に対する批判の欠如が目だつが,プルタルコス自身これは歴史の本ではなくあくまでも伝記であるとことわっている。各人物について家系から始まり,生い立ちや教育,出世とその後の運命など共通した構成で記述を進めているが,主眼は人物像を明確に描き出すことに置かれ,そのためには偉人の大きな業績よりもむしろささいな言動に性格がよく現れることを重視した。偉大な人物の持つ欠点もまた読者に徳の重要さを教えるところが大きいと考える著者の,人間性によせる温かい理解は,作品の各所にあふれて,いきいきとした叙述とあいまって伝記を魅力あるものにしている。
この作品の重要性は何よりも後世に与えた影響であろう。中世以降現代に至るまで,ギリシア・ローマの古典の中でこれほど幅広い読者層から愛読されてきた作品はほかにない。中世の時代にも重要視され,ビザンティンの学者たちが熱心にテキストを集めたが,ルネサンス期になるとイタリア語やスペイン語をはじめとして各国語に訳され,ますます人気が高まっていった。フランスではアミヨの訳が1559年に出され,モンテーニュなどが大きな影響を受けている。しかし最大の恩恵を受けたのはシェークスピアであろう。イギリスではアミヨの仏訳をもとに,ノースThomas Northによる英訳が1579年に完成したが,シェークスピアはこれを大いに利用して,古代を舞台にした《ジュリアス・シーザー》《アントニーとクレオパトラ》《コリオレーナス》などの戯曲を作り上げている。
執筆者:引地 正俊
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古代ローマ帝政初期にギリシアの人プルタルコスが著した作品。正しくは『対比列伝』というべきである。ギリシア,ローマの諸英雄を対比した伝記。現存するのは50人の伝記。著作の時期は105~115年と推定される。
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…まず歴史という母胎ではぐくまれ,やがてひとり立ちするに至ったものが伝記だともいえる。中国の《史記》では,列伝が不可欠の構成要素をなしており,プルタルコスの《英雄伝》は,ギリシア,ローマの史上有名な人物を2人ずつ組み合わせた対比列伝であった。日本の《古事記》《日本書紀》でも中核をなすのは天皇の列伝であり,平安後期成立の《大鏡》以降の,いわゆる鏡物の国文の歴史物語も列伝体を軸としており,《栄華物語》には〈藤原道長伝〉という副題をふることも許されよう。…
…数多くの作品を書いたと伝えられるが,現存する作品で彼の真作と考えられるものは80に満たない。しかしながらその中には有名な《英雄伝》の大作があり,そのほかにも《倫理論集(エティカ,モラリア)》と呼ばれる膨大な著作集がある。後者は道徳ばかりでなく,政治,宗教,文学,音楽など広い範囲にわたって扱った著述で,その思想は深遠なものではないが堅実であり,豊かな教養を示していることからルネサンス期を中心として後世への影響が大きい。…
※「英雄伝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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