高佐村(読み)たかさむら

日本歴史地名大系 「高佐村」の解説

高佐村
たかさむら

[現在地名]むつみ村大字高佐上たかさかみ・大字高佐下たかさしも

片俣かたまた村の西にある村。北西に権現ごんげん山、北東に高津たかつ山、南東に白浜しらはま山、南になめら山など五〇〇―六〇〇メートル級の山々に囲まれた山間部にあり、集落は村内を流れる諸川の流域に点在する。奥阿武宰判所属。

「延喜式」に記される宅佐たかさ駅が置かれたといわれる。中世は高佐郷とよばれ、文和元年(一三五二)八月一三日付の大井おおい八幡宮(現萩市)の宮座文書「御祭礼郷々社頭座敷本帳之事」に、右座の四番として「高佐郷」とあり、当時阿武郡一八郷の一に数えられていた。大内義弘が防長を領した時、周防仁保にほ(現山口市)の地頭平子貞重が当地を知行した。康暦二年(一三八〇)八月一八日付の大内義弘の判のある文書(「閥閲録」所収三浦又右衛門家文書)は「長門国阿武郡高佐西地頭職事、奉預之候、守先例可有知行之状如件」と記す。また郷内には山口善福ぜんぷく寺領があった。嘉吉三年(一四四三)八月一七日付の善福寺敷地同寺領等注文(「寺社証文」所収山口善福寺文書)は、応永一三年(一四〇六)一一月一五日の大内盛見御判物のあることを記し、それには「長門国阿武郡高佐郷内円光寺免河内極楽寺免山田」とある。


高佐村
たかさむら

[現在地名]河芸町高佐

北黒田きたくろだ村と南黒田村との境界となっている丘陵が、東南に向かって突出した先端に当村の集落があり、その前方に当村の水田が広がって、小川こがわ(現津市栗真小川町)の水田に続いている。そこには条里地割の遺構があり、「三ノ坪」の地名も残る。

文禄検地帳(徳川林政史蔵)では、白塚しらつか町屋まちや中山なかやま・小川(現津市)および中瀬なかぜと併せて千王名の名で一括されている。江戸時代は和歌山藩白子領三六九・六八四石と、津藩領一〇五・四九石の相給村で、寛文九年(一六六九)以降、津藩領は久居藩領となる。文化三年(一八〇六)の白子領平野組大指出帳(津市田中繁三氏蔵)と寛延年間(一七四八―五一)の「宗国史」によると、和歌山藩領は家数四八、人数一七八、馬一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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