高御堂村(読み)たかみどうむら

日本歴史地名大系 「高御堂村」の解説

高御堂村
たかみどうむら

[現在地名]神林村高御堂

岩船町(現村上市)から桃川ももがわ村を通り、女川おんながわ(現関川村)へ抜ける道沿いにある。北をいし川が流れる。東は大塚おおつか村、西は小口川こくちがわ村、南は今宿いまじゆく村に接する。永正六年(一五〇九)九月一一日の耕雲寺領納所方田帳(耕雲寺文書)に「高御堂十郎四郎 一貫地 ソリ田三百苅也此内屋敷一間此屋敷ハ洲崎殿之分也毎年三俵定之 越前殿之分」と記される。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「大国但馬分たかみたう」とみえる。近世は村上藩領。正保国絵図では高一四〇石余。享保二〇年(一七三五)の村明細帳(板垣総兵衛氏蔵)によると、田一三町五反二畝余・畑三反余、家数一二・人数六三、馬六。


高御堂村
たかみどうむら

[現在地名]稲沢市高御堂町・高御堂

南は小池正明寺こいけしようめいじ村に接する。村の北を大江おおえ川が流れ、中央を東西に美濃路が通り、街道の北に本郷があり、街道沿いには出町があった。街道より北へ大門だいもん通が通り、尾張大国霊おわりおおくにたま神社の一の鳥居がある(天保村絵図)。天正一〇年(一五八二)長野万徳寺領年貢帳(万徳寺文書)に「たかみとう 吉田水主殿」とみえる。天正末、織田信雄が幅五間の幹線道路築造を命じた判物や、幅三間の支線道路築造を命じた判物(酒井家文書)に高御堂とみえ、家臣吉田主水・同喜助・同小次郎・同小五郎・同喜右衛門の知行地であった(織田信雄分限帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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