高柴村(読み)たかしばむら

日本歴史地名大系 「高柴村」の解説

高柴村
たかしばむら

[現在地名]郡山市西田町にしたまち高柴たかしば

板橋いたばし村の南、阿武隈高地西縁の丘陵に立地。三春みはる(現三春町)から本宮もとみや(現本宮町)に通じる道が抜ける。福田ふくだ飯野いいのの二集落からなる。永禄一一年(一五六八)七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「三段 三百文 たかしは」とみえ、紀州熊野速玉はやたま社に年貢三〇〇文を納めていた。天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(同文書)には「三段 二百九十 高芝」とあり、同一八年一〇月九日の熊野新宮領差出帳(片倉文書)でも「高柴分」として年貢三〇〇文を同社に納めている。


高柴村
たかしばむら

[現在地名]仁多町郡村こおりむら

郡村の南西、狭小な谷間に位置する。西方じよう(五七八・一メートル)がそびえる。正和二年(一三一三)四月五日の尼妙音寄進状写(高田寺根元録)に「高しば」とみえ、同地の山野などが大領だいりよう権現へ寄進されている。建武三年(一三三六)五月一〇日の頼源寄進状写(同書)によると、「高柴みぞ田」五〇〇文などが大領権現に祭料として寄進されている。元亀三年(一五七二)三月二四日三沢為清は母芳林正春禅定尼の位牌免として「三所東分高柴之内三前田」一貫五〇〇文など合せて五貫五〇〇文の地を覚融かくゆう寺へ寄進している(「三沢為清寄進状」覚融寺文書)


高柴村
たかしばむら

[現在地名]大子町高柴

生瀬なませ盆地の東寄りにあり、南は小生瀬こなませ村。佐竹知行目録(彰考館蔵)の永正九年(一五一二)の項に「高柴ノ内宿 石井源次郎」とみえ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「高柴村」とある。同二一年の御知行割郷帳によると家臣岡崎平兵衛・門奈庄右衛門の給地で、天保一三年(一八四二)検地では田畠八六町余、分米七八八石余(新編常陸国誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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