高野松山(読み)タカノ ショウザン

20世紀日本人名事典 「高野松山」の解説

高野 松山
タカノ ショウザン

大正・昭和期の漆芸



生年
明治22(1889)年5月2日

没年
昭和51(1976)年3月5日

出生地
熊本県熊本市

本名
高野 重人(タカノ シゲト)

学歴〔年〕
京都市立美術工芸学校描金科〔明治44年〕卒,東京美術学校漆工科〔大正5年〕卒

主な受賞名〔年〕
帝展特選〔昭和7年・8年〕,紫綬褒章〔昭和40年〕,日本キワニス文化賞〔昭和40年〕,勲三等瑞宝章〔昭和50年〕

経歴
熊本の徒弟学校で漆工の基礎を学び、京都、東京美校などでさらに修業、東京美術学校教授白山松哉助手となって繊細な蒔絵の技術を学んだ。大正12年師から松山の雅号を受ける。昭和8年退職。実家が肥後細川家と縁があったことから13年以来細川護立に長く庇護されながら制作を続け、漆芸の名品といわれる作品を主として日展に発表した。特に木地蒔絵の作品は、江戸時代以来の精緻な蒔絵技法を現代的な構成でまとめ、高い評価を得た。30年人間国宝に認定される。新綜工芸会主宰、38年日本漆芸会会長。代表作に「獅子蒔絵色紙箱」「乾漆鶉蒔絵飾箱」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「高野松山」の意味・わかりやすい解説

高野松山
たかのしょうざん
(1889―1976)

漆芸家。本名は重人(しげと)。熊本市(現在の西区池上町)に生まれる。祖父細川藩の儒者、父は小学校校長であったが、幼時より細工物に興味をもち、13歳で飽託(ほうたく)郡立工業徒弟学校漆工科に入学。のち京都市立美術工芸学校描金科、東京美術学校漆工科を卒業。在学中は白山松哉(しらやましょうさい)に親しく学び、精緻(せいち)な白山派蒔絵(まきえ)を修得し、また変(かわり)塗りの一種、竹塗りを橋本市蔵から学んだ。松哉より松山の号を受け、細川侯爵の援助のもとで作品を制作した。1927年(昭和2)第8回帝展に『獅子蒔絵(ししまきえ)色紙箱』(東京・永青文庫)を出品、のち日展でも活躍。1952年(昭和27)には蒔絵の重要無形文化財保持者に認定。作風江戸蒔絵の伝統を継承し、緻密な描法に特色があり、代表作に『木地蒔絵蝶(ちょう)文手箱』(文化庁)がある。

[郷家忠臣]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高野松山」の解説

高野松山 たかの-しょうざん

1889-1976 大正-昭和時代の漆芸家。
明治22年5月2日生まれ。白山松哉に白山派蒔絵をまなび,松哉より松山の号をうける。竹塗りを2代橋本市蔵にまなぶ。昭和30年蒔絵の人間国宝。代表作に「木地蒔絵蝶文手箱」など。昭和51年3月5日死去。86歳。熊本県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は重人。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「高野松山」の解説

高野 松山 (たかの しょうざん)

生年月日:1889年5月2日
大正時代;昭和時代の漆芸家。人間国宝;新綜工芸会主宰
1976年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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