日本歴史地名大系 「髭茶屋町」の解説 髭茶屋町ひげちややちよう 京都市:山科区髭茶屋町[現在地名]山科区髭茶屋〈挑燈(ちようちん)町・屋敷(やしき)町〉北を三条街道(東海道)によって現滋賀県大津市、東を八軒(はちけん)町、南を小山(こやま)村、西を音羽(おとわ)村に囲まれる。京都へ向かう三条街道と奈良へ向かう奈良街道(大津街道)が分れる追分(おいわけ)(現大津市)のすぐ西に位置し、逢坂(おうさか)山麓の街道集落。豊臣秀吉が西国出兵に際し立寄ったとき住民が路々門門に提灯を捧げて迎えたので、後の秀吉政権時代には課役が免じられ、町名を提灯(ちようちん)町としたという。また方広(ほうこう)寺(現東山区)造営に際し、資材運搬のために道路が拡張され、民家を一部移して分離、八軒町としたという。 髭茶屋町ひげちややまち 滋賀県:大津市大津町髭茶屋町[現在地名]大津市追分町(おいわけちよう)・横木(よこぎ)二丁目追分町の西にある東海道沿いの片側町で、当町で伏見街道が分岐する。寛保二年町絵図では東海道筋を京街道と記し、分岐点に高札場が置かれる。天正二〇年(一五九二)一〇月、豊臣秀吉が逢坂(おうさか)山近くに一里塚を築いた際、「鬚茶屋町」から人足を出している(園城寺旧記)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by