京街道(読み)キョウカイドウ

デジタル大辞泉 「京街道」の意味・読み・例文・類語

きょう‐かいどう〔キヤウカイダウ〕【京街道】

大坂京橋から伏見を経て京都四条縄手に至る街道。

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日本歴史地名大系 「京街道」の解説

京街道
きようかいどう

大坂と京都および伏見ふしみ(現京都市伏見区)とを結ぶ道で、京道(京路)ともよばれた。現在の国道一号の前身で、大坂―伏見間は東海道の一部でもあった。大坂城の北に位置する京橋きようばし(現東区)が起点であり、京都では鳥羽とば(現京都市南区)、伏見では京橋が終点をなす。京都および伏見側からは大坂街道または河内路とよんだ。享保二年(一七一七)成立の「京都御役所向大概覚書」は京都への入口として鳥羽口をあげ、河内路について「東寺四塚ヨリ南鳥羽村ヘ出、淀掛リ橋本ヲ通、河州楠葉村ヘ出ル、四里半余」「摂州大坂ヘハ淀懸リ橋本ヲ通、右之河州楠葉懸リ」とある。また陸地測量部明治二二年(一八八九)測量の二万分の一仮製地形図「伏見」と同二三年測量「淀」の二図幅は、同じ鳥羽口からよど(現京都市伏見区)までの区間を京街道としているが、同四二年測量の正式二万分の一地形図以降は、すべて大阪街道と記している。これに対して大阪府側の路線はいずれの地形図も京街道とするが、大阪側からみたこの街道の終点については、淀から鳥羽を経由して鳥羽口に至る鳥羽街道に限定されるものではなかった。「淀川両岸一覧」は、京師往還の本街道として次のように記す。

<資料は省略されています>

文中の本街道とは伏見街道のことで京都五条橋に至り、京都の東洞院ひがしのとういん通に通ずる竹田たけだ街道とともに伏見から京都に至る代表的な京街道であった。

京街道は豊臣秀吉による淀川左岸の文禄ぶんろく堤の構築によって成立した。天正一一年(一五八三)に大坂城、同一六年淀城、次いで文禄三年(一五九四)に伏見城が築かれると、この大坂と伏見とを結ぶ最短路としての京街道が、諸大名を動員した淀川左岸の築堤工事に伴う堤防道として誕生したのである。伏見付近の淀川堤防は城郭の普請と並行して文禄三年から前田家・徳川家によって工事が開始され、続いて慶長元年(一五九六)にかけて毛利家・小早川家・吉川家や東国諸大名によって下流の河内・摂津へと工事が進められた。


京街道
きようかいどう

江戸時代、丹後・丹波から京都へ向かう道を多くの場合京街道(京道)と称したが、主なものとして、(一)田辺たなべ城下―真倉まぐら(現舞鶴市)何鹿いかるが黒谷くろたに梅迫うめざこよこ峠―山家やまが(現綾部市)草尾くさお峠―檜山ひのきやま(現船井郡瑞穂町)のルートと、(二)福知山城下じやはな土師新町はぜしんまち長田おさだ多保市とおのいち岩崎いわさき池田いけだ生野いくの(現福知山市)千束せんぞく菟原下うばらしも(現天田郡三和町)下大久保しもおおくぼ―上大久保水原みわら坂井さかい井尻いじり大朴おぼそ―檜山(現船井郡瑞穂町)のルートがあった。檜山からは一本となり、須知しゆうち水戸みと観音かんのん(現船井郡丹波町)木崎きざき園部そのべ(現船井郡園部町)室河原むろがわら鳥羽とば八木やぎ(現船井郡八木町)川関かわぜき千原ちわら亀山かめやま城下―しの王子おうじを経ておいさか(現亀岡市)を越えた。なお福知山城下で(二)の京街道につながる宮津城下(現宮津市)―福知山城下の道を、宮津では京街道(普甲峠越)とよび(福知山からは宮津街道という)、また但馬街道も但馬側では京街道とよんだ。


京街道
きようかいどう

江戸時代、田辺たなべ城下から現綾部市を経て現船井郡和知わち町で福知山からの京街道(福知山市の→京街道に接続する道をいった。

田辺城の大手門を出ておお橋を経て京口きようぐちに至る。ここで高野川に架かるきよう橋を渡るが、橋のたもとに番所があり、橋から京街道に沿って八丁縄手があった(旧語集)。次いで伊佐津いさづ川の氾濫原の微高地を通り、公文名くもん七日市なぬかいちを過ぎ、伊佐津川の谷に沿って真倉まぐらに出る。真倉は京街道における田辺領最南端の村で、旅人の休憩のための茶屋があり(土目録)、また賃持人足もいて、丹後国加佐郡寺社町在旧記に「真倉 京都丹波通ひ賃持等多有之」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「京街道」の意味・わかりやすい解説

京街道【きょうかいどう】

近世に京都と大坂を結んだ街道。京道・大坂街道・河内路ともよばれた。1594年豊臣秀吉が淀川左岸に文禄堤を築き,堤防道を伏見・大坂間の近道としたのに始まる。江戸幕府は道をさらに整備して伏見・淀・枚方(ひらかた)・守口の4宿を設けた。また当街道を東海道の延長とみなし,道中奉行の管轄下に置いた。伏見から大坂までの下りには淀川の舟運が多く利用されたため,枚方宿守口宿における人馬の継立はほとんどが上り便であった。紀伊徳川家・安芸浅野家・土佐山内家・阿波蜂須賀家などが参勤交代に利用し,琉球使節も当街道を通った。
→関連項目枚方[市]守口[市]

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改訂新版 世界大百科事典 「京街道」の意味・わかりやすい解説

京街道 (きょうかいどう)

近世における京都・大坂間の街道。豊臣秀吉が大坂・淀・伏見に築城の後,1594年(文禄3)に淀川左岸に文禄堤を築造し,堤防上を道路として伏見・大坂間の近道としたのが起源である。江戸幕府は道路をさらに整備し,京街道に伏見枚方守口の4宿駅を設定し,品川から大津までのいわゆる東海道五十三次のほかにその延長上の宿とみなし,道中奉行の管轄下に置いた。
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