八軒町(読み)はつけんちよう

日本歴史地名大系 「八軒町」の解説

八軒町
はつけんちよう

[現在地名]岡崎市梅園うめぞの町・門前もんぜん町・なか

伝馬てんま町の北裏側に位置し、一部随念ずいねん寺の門前に東西していた。伝馬町下切の北裏の瓦屋敷かわらやしきと称する地も八軒町支配であった。古くは当町の北側の山麓に八軒の家が建てられたところから生じた名という(岡崎市史)総持そうじ寺領であった。八軒町の北東の南面する山腹一帯も同寺領で、北野きたの天満宮(伝馬天神)があり、その東側は円光えんこう山とよぶ月見の名所であった。この近くに、伝馬町の塩問屋国分伯機が寛保四年(一七四四)に別荘市隠亭しいんていを営み、当時の岡崎藩水野家の藩儒秋本嵎夷をはじめ東西の文人たちが集まった(旧国分家文書)。出郷前の菅江真澄も安永九年(一七八〇)頃に市隠亭に招かれ秀超の雅号で観月記を草している(岡崎市郷土館蔵)

八軒町
はちけんちよう

[現在地名]東山区祇園町南側の一部

祇園石段下いしだんしたより南、旧安井道やすいみち(現東大路通)の西に位置した町。別称の「やぶした」は、地名としては古い。明治元年(一八六八)祇園町南側ぎおんまちみなみがわに合併(坊目誌)

貞享三年(一六八六)京大絵図に「やぶの下 水茶や」の記入があり、当時の祇園町につづく茶屋町を形成していたことを知る。寛保初京大絵図は「八(軒) ヤフノ下」と併記する。

八軒町
はちけんまち

[現在地名]酒田市新井田町にいだちよう

東は新井田川、西は米屋こめや町に接し、東西に延びる両側町。米屋町組に属する。当初同町に含まれたが、寛永元年(一六二四)六人の屋敷地ができ、最上氏時代の斎藤筑後守与力の宅地と合せて八軒となり、天和二年(一六八二)米屋町から分離し八軒町となった。元禄三年(一六九〇)佐藤次郎の願いで川端に曲町をつくり横町とした(「明暦絵図書入」大泉叢誌)。天和三年の酒田町割家数人数書上(鶏肋編)では町域一町半、家数五〇・人数二八一。

八軒町
はちけんまち

[現在地名]高山市八軒町

みや川の西側に位置し、町域は長さ二町半(寛政元年「高山三町村覚帳」高山市立郷土館蔵)二之町にのまち村に所属し、南から東は西川原にしかわら町、東は川原町。金森氏時代の元和元年(一六一五)、三代重頼が娘文浜院・清正院・松寿院のために宮川左岸に下屋敷むかい屋敷)を設けたのが始まりで、元禄五年(一六九二)幕府領となってのちは向屋敷が高山陣屋となり、陣屋を中心に発達した。同七年の検地によれば三之町村に属し、屋敷一反余・分米一石一斗余、屋敷持数・家数四(同八年「三之町村屋舗検地帳」同館蔵)

八軒町
はちけんちよう

[現在地名]山科区八軒屋敷やしき

北・東を現滋賀県大津市、南を小山こやま村、西を髭茶屋ひげちやや町に接する。三条街道(東海道)と奈良街道(大津街道)が分れる追分おいわけ(現大津市)の西側に立地し、街道に面した集落。

天正年間(一五七三―九二)豊臣秀吉方広ほうこう(現東山区)造営の際、道路敷設のため提灯ちようちん町の一部がこの地に立退いたが、それが八軒であったので八軒町と称したという(「文化四年八月三町由緒書」比留田家文書)(→髭茶屋町

八軒町
はちけんちよう

[現在地名]高知市ほん町三丁目・鷹匠たかじよう町一丁目

中島なかじま町の南側にあり、東・西の溜池の間、東西一町三三間の町(高知市沿革略志)。通りを挟んで南北両側に各四軒の武家屋敷があったことから名付けられたという。寛永―万治(一六二四―六一)頃の侍町小割帳(皆山集)には「中島南町」とみえる。

八軒町
はつけんまち

[現在地名]大津市御殿浜ごてんはま

みや町の東にあり、東海道が南に折れる地、勢多せた口には南総門と番所が置かれた。別保べつぽ村域に町割が行われ、当初八軒あったことに由来する町名という。元禄一五年(一七〇二)の膳所総絵図(中村家蔵)に町名がみえ、東海道筋の町並は六七間余、家数八。

八軒町
はちけんちよう

下京区上枳殻馬場通下寺町東入

東西に通る上珠数屋町かみじゆずやまち通の北側に面する片側町。

平安京の条坊では左京七条四坊一保七町、平安中期以降は左女牛万里小路南の地。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「八軒町二丁目」、寛永以後万治以前京都全図では「八軒町但片原丁」、寛文後期洛中洛外之絵図及び宝永二年(一七〇五)洛中洛外絵図に「八軒丁」とみえる。町名は寛永八年に町地となった時、八戸の人家があるのみであったことによる(坊目誌)

宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」は、「八軒町 此辺古六条院の旧地にして、其跡東本願寺の内に有とぞ、則今の境内の池は古の池なり、古老曰、中頃の事にか此池の端に女あまた住んで針を商ひしを、池の側針がはばりと世にいひし也、今池を埋て町家建継し故大津路にて商ふ。

八軒町
はちけんちよう

[現在地名]和歌山市北細工きたさいく町・西紺屋にしこんや町二丁目・屋形やかた町二―三丁目・和歌わか

北細工町と和歌町の間を東西に通る道に面する町人町。西端は堀詰ほりづめ川の東中ひがしなか橋で、東端は和歌川の紺屋橋。「紀藩街官司秘鑑」には俗称として「東紺屋町北之横、西紺屋町北之横ヲ八軒丁と唱」とあり、文政一三年(一八三〇)正式に町名となった(「御触書写」道成寺文書)

八軒町
はちけんちよう

東山区三条南裏白川筋西入二丁目

東は衣屋ころもや辻子ずし。慶安元年(一六四八)町地となったと「坊目誌」はいうが、典拠は明らかでない。文献では延宝二年(一六七四)四方洛外町続之町々小名之覚(荻野家文書)に「八間町」とみえる。町名は、当初八軒だったからと思われるが、正徳四年(一七一四)洛外町続町数小名家数改帳(同文書)によっても「一、九軒 同(粟田口)八軒町」と家数は一軒しか増えていない。

八軒町
はちけんまち

[現在地名]伊勢崎市大手町おおてまち

伊勢崎城裏(東)門の東方約一〇〇間、あら町東側の東西に延びる両側町。稲垣氏時代からの町。寛永一九年(一六四二)検地帳(伊勢崎市立図書館蔵)に屋敷七筆がみえ、南側四軒・北側三軒。北側に同心どうしん町に入る同心町通があり、幅二間。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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