鳥沢村(読み)とりさわむら

日本歴史地名大系 「鳥沢村」の解説

鳥沢村
とりさわむら

[現在地名]大月市富浜町鳥沢とみはままちとりさわ

宮谷みやたに村の東、桂川の左岸段丘上からおうぎ(一一三七・八メートル)の南緩斜面に位置する。中世には小西こにし郷といい、近世に入っても初めは小西村と称していたが、のち鳥沢村に改めた。改称時期について「甲斐国志」は年貢皆済目録などから明暦二年(一六五六)から寛文九年(一六六九)までの間とする。なお村名の由来は西方猿橋さるはし宿と東方の犬目いぬめ宿(現上野原町)の間に位置したことから、十二支の酉にちなんで鳥沢としたものという(北都留郡誌)。地内を甲州道中が通り、村内には合宿の上鳥沢宿(西方)・下鳥沢宿(東方)が置かれた。


鳥沢村
とりさわむら

[現在地名]栗駒町鳥矢崎とやさき

深谷ふかや村の北西三迫さんのはさま川の支流鳥沢川の上流域に立地する。西に三迫松倉まつくら村、北東部に同普賢堂ふげんどう(現金成町)。当村も三迫に属し、三迫大肝入の管轄。村名の鳥沢を富沢とみさわの訛ったものとする説があり、中世末いわさき城主で葛西氏一族の富沢氏に関連づけ、永正一一年(一五一四)の「余目記録」に同氏が恩賞として与えられた「三迫とみさハ」を当地とする。「安永風土記」には葛西氏家臣の樋渡典膳が居館したと伝える樋渡ひわた館が記され、高さ五丈・南北八〇間・東西三〇間とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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