日本の城がわかる事典 「鳴海城」の解説 なるみじょう【鳴海城】 愛知県名古屋市緑区にあった平山城(ひらやまじろ)。丘陵の西に立つ東西に細長く延びた城郭であったようである。城の規模は記録によりさまざまだが、『鳴海誌』によれば「東西75間半(約140m)、南北34間(約60m)」とある。応永年間(1394~1427年)、将軍足利義満麾下の部将安原宗範によって、成海神社のあった場所に築かれた。宗範の死後、廃城になったといわれるが、戦国時代には、織田信秀(織田信長の父)配下の山口教継が城主をつとめる、対今川(今川義元)の防衛を担う拠点になっていた。信秀の死去に伴い、嫡男の信長が家督を継いだが、信長を見限った教継・教吉父子は今川方に城ごと寝返った。信長は1553年(天文22)、800の兵をもって鳴海城を攻めたが陥落させることはできず、鳴海城は尾張領に深く入り込んだ今川方の前進拠点となった。その後、山口教継・教吉父子は義元により切腹を命じられたため(これは信長の経略といわれている)、鳴海城には今川氏の部将・岡部元信が入城した。信長はこれに対して、1559年(永禄2)ごろに鳴海城の周囲に丹下砦(名古屋市緑区)、善照寺砦(同)、中嶋砦(同)を、同じく今川方の大高城(同)の近くに丸根砦(同)、鷲津砦(わしづとりで)(同)の計5つの砦を築いて、鳴海城と大高城との連絡を分断して対抗した。今川義元は翌1560年(永禄3)に大軍を発して西上を開始し尾張領に入って、桶狭間の戦いが起こった。この戦いで、寡兵の織田勢の奇襲により義元が討ち取られ、大軍の今川勢は大敗した。今川方が次々と敗れ、城が陥落する中で、岡部元信を城将とする鳴海城は持ちこたえたが、義元の首級の返還を条件に城を明け渡した。この戦いののち、信長は佐久間信盛・信栄父子を入城させて城主としたが、天正年間(1573~93年)末期に廃城になったといわれている。鳴海城があったとされる場所の一部は現在、城跡公園になっており、城址碑が建っている。同公園を含むかつての城域には、はっきりとした遺構は残っていないが、空堀や土塁の跡とおぼしき痕跡がある。また、近隣の東福院(寺院)には、鳴海城の廃材で造られたと伝えられた門が現存する。名鉄名古屋本線鳴海駅から徒歩約5分。◇根古屋城ともよばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報