鵜島村(読み)うしまむら

日本歴史地名大系 「鵜島村」の解説

鵜島村
うしまむら

[現在地名]珠洲市宝立町鵜島ほうりゆうまちうしま

鵜飼うかい村の南にあり、内浦街道が通る。中世若山わかやまただ郷内であった鵜島は江戸時代初めに鵜島村・黒丸くろまる(南黒丸村)宗玄そうげん村の三村に分れるものの、なお鵜島三箇うしまさんがと称するように地籍が複雑に入組んでいるが、ほぼ当村の南に南黒丸村・宗玄村と続き、さらに鵜島・宗玄の両村領が続いていたと考えられる。鵜島の名は鵜飼村境に浮ぶ見附みつけ島が鵜の群れる島であったからともいう。戦国後期頃の能登内浦村々給人注文写(諸橋文書)に「宇嶋」とみえ、遊佐氏の知行地であった。天正一一年(一五八三)一一月二二日の長百姓三人扶持状(上浜文書)によれば、直郷のうち二〇俵を「あけはま」、一〇俵を「たうか谷」、同じく一〇俵を「とちかひら」の三人の長百姓に扶持しているが、「あけはま」は当地の上浜家で、翌一二年八月に出された諸商売免許状(同文書)には鵜島上浜三郎衛門とみえる。同家にはこの二通を含め前田利家の印判状が一七通所蔵されており、最も古い天正一〇年八月二八日の直郷夏成年貢米小請取状には合一四俵五升三合(ただし金子四貫文目八分)とある。


鵜島村
うじまむら

[現在地名]穴水町鵜島

内浦街道に沿い、東は七尾北湾の穴水港に面し、北は大町おおまち村。天文元年(一五三二)七月の諸橋六郷・南北棟数注文写(諸橋稲荷神社文書)によれば、南北なんぼくのうち鵜島で棟役を負担する役屋は六間とある。戦国後期頃の能登内浦村々給人注文写(諸橋文書)に「小嶋」とあり、栂雪軒の知行分であった。領主の変遷は川島かわじま村に同じ。土方雄久知行目録に村名があり、高三九七俵余で、六割が百姓得分。正保郷帳では高一九八石余、田方八町六反余・畑方四町五反余。貞享四年(一六八七)の家数一一(うち役家九)・人数八六、馬二〇(加賀藩史料)。享保六年(一七二一)の高二〇五石余、免三ツ九分、塩釜役三二匁(「幕府領小物成帳」室木文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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