鵜足郡(読み)うたぐん

日本歴史地名大系 「鵜足郡」の解説

鵜足郡
うたぐん

讃岐国の中央部よりやや西に位置する。東は阿野あや郡、西は那珂なか郡、南は阿波国と接し、北は瀬戸内海に面する。土器どき川が西部を、大束だいそく川が東部を北流する。現丸亀市の北東部、宇多津うたづ町を含む綾歌あやうた郡の西半分、仲多度なかたど満濃まんのう町の西部および同郡琴南ことなみ町の地域を郡域とした。宇足・鶏足・鵜垂・宇達・雨多などとも記される。

〔古代〕

正倉院御物の調の墨書に、天平一八年(七四六)一〇月の日付で、「讃岐国鵜足郡川津郷戸主内部宮麻呂調壱匹」とある。日付不明だが奈良県大和郡山やまとこおりやま稗田ひえだ遺跡から「讃岐国鵜足郡小川郷□□」と記された木簡が出土している。「播磨国風土記」に揖保いぼ飯盛いいもり山の地名起源として、讃岐国宇達郡飯神の妾飯盛大刀自が来り住んだことによるとあるから、当郡の成立もまた霊亀(七一五―七一七)以前にさかのぼるとみることができる。後代の史料から推定される鵜足郡地域におかれた部は、建部・吉士部・蘇我部など。「日本霊異記」に記す聖武天皇の代に山田やまだ郡の同名の女の身代りに冥途に連れていかれた鵜垂郡の布敷臣衣女は、摂津国兎原うはら布敷ぬのしき郷を本拠とする布敷臣の一族で、当郡と山田郡に移り住んでいたのであろう。「和名抄」では「鵜足」と表記し、「宇多利」と訓じている。同書記載の管郷は長尾ながお小川おがわ井上いのへ栗隈くりくま坂本さかもと川津かわつ二村ふたむら津野つのの八郷で、中郡である。天平一九年二月一一日の法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(正倉院文書)によると、奈良法隆寺の庄園二所が鵜足郡にあった。天平勝宝四年(七五二)一〇月二五日の造東大寺司牒(東大寺文書)では、讃岐国に置かれた東大寺の封戸一五〇戸のうち五〇戸が鵜足郡川津郷に定められている。

延喜式内社は小社のいい神社と宇閇うべ神社で、前者は丸亀市、後者は綾歌郡綾歌町の同名社に比定されている。このほか貞観六年(八六四)一〇月一五日に、宇夫志奈神(宇夫階神社)が正六位上から従五位下にあげられている(三代実録)。綾歌郡飯山はんざん町にある法勲ほうくん寺は、境内および周辺から奈良時代前期から室町時代までにおよぶ瓦が出土しており、古代から中世まで続いた寺院であったが、江戸時代初期、藩主生駒一正が高松に移して弘憲こうけん寺と改称した。綾歌郡宇多津町の聖通しようつう寺は山城醍醐寺を開いた聖宝が貞観一〇年に創建したと伝える。

〔中世〕

鵜足郡の国衙領のうち二村郷の水田五六町は嘉禄三年(一二二七)に讃岐知行国主九条道家によって京都泉涌せんにゆう寺に寄進された。讃岐国は後嵯峨上皇以後、大覚寺統の皇室領として伝領されているが、文永九年(一二七二)正月一五日の後嵯峨院処分帳(後嵯峨院御文類)によると、河津郷が皇子円満院宮円助法親王に譲られている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報