鶴川村(読み)つるかわむら

日本歴史地名大系 「鶴川村」の解説

鶴川村
つるかわむら

[現在地名]上野原町鶴川

鶴川を挟んで上野原村の東に位置し、村の北部を東流する仲間なかま川は当地で鶴川に合流する。村内を甲州道中が通り、同道中の宿駅が置かれている。古くは北西方に位置する芦垣あしがき和見わみ桑久保くわくぼ大曾根おおぞね大倉おおくらの仲間入五ヵ村、および西隣の大椚おおくぬぎ村と合せて鶴川村一村であったといわれる。またこれら諸村は文禄検地の折に分立したという(「甲斐国志」など)。応永年中(一三九四―一四二八)の武田・逸見両氏の抗争のなかで、逸見氏を支持する関東公方足利持氏は同三三年武田信長追討のために軍勢を派遣、この軍勢は七月二日「鶴河」に、同一五日には大槻おおつき(現大月市)に到着、信長はこれに降伏している(同年九月日「善波憲有軍忠状写」諸州古文書)

鶴川村
つるがわむら

[現在地名]古座川町鶴川

大柳おおやなぎ村の西方にある。村の南に位置する吐生はぶ(現西牟婁郡串本町)境より流れ出る鶴川が村内を貫流し、古座川に流入する。慶長検地高目録によると村高九〇石余、小物成一・四石。古座組に属し、「続風土記」には家数二二、人数一〇五で、村内の徳倡山玉泉ぎよくせん(臨済宗妙心寺派)はもと徳正山長福寺と称したとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報