鷹司院(読み)たかつかさいん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鷹司院」の意味・わかりやすい解説

鷹司院
たかつかさいん

[生]建保6(1218).京都
[没]建治1(1275).2.11. 京都
後堀河天皇の皇后長子。父は関白太政大臣藤原家実,母は修理大夫藤原季信の娘。嘉禄2 (1226) 年入内して女御 (にょうご) となり,皇后宣下,中宮と称せられた。寛嘉1 (29) 年院号宣下をこうむって鷹司院と称した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鷹司院」の解説

鷹司院 たかつかさいん

1218-1275 鎌倉時代,後堀河天皇の中宮(ちゅうぐう)。
建保(けんぽ)6年生まれ。近衛家実の娘。宣陽門院の猶子。嘉禄(かろく)2年9歳のとき中宮となる。寛喜(かんぎ)元年院号をうけ,四条天皇の准母となった。文永12年2月11日死去。58歳。名は藤原長子

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の鷹司院の言及

【宣陽門院】より

…後鳥羽上皇はその子雅成親王を女院の猶子とし,女院領の伝領をねらったが,承久の乱により女院領はいったん幕府に没収され,22年(貞応1)に返付された。その後,女院は近衛家実の女長子を養子とし,26年(嘉禄2)入内させて後堀河天皇の中宮にするなど,家実と結んで政局に介入,九条道家と競ったが敗退し,長子は29年(寛喜1)院号宣下,鷹司院と称した。 女院はすでに16年(建保4)信頼する仁和寺菩提院の行遍を通じ,別当三位家領阿波国宍咋荘を高野山蓮華乗院に寄進していたが,政争に敗退後,行遍への信任を強め,38年(暦仁1)庁分大和国平野殿荘,翌39年(延応1)別当三位家領伊予国弓削島荘を東寺に,同じく周防国秋穂二嶋荘を菩提院に寄進,東寺に供僧設置をはかる長者行遍を援助した。…

【長講堂】より

…雅成親王が承久の乱の謀議に参画したため,長講堂領は鎌倉幕府によって没収されたが,まもなく本主の宣陽門院に返還された。宣陽門院は,猪隈関白家実の女藤原長子を養子にし,後堀河天皇に入れて中宮鷹司院とし,この鷹司院に長講堂とその所領を譲与しようとした。しかし後嵯峨上皇から異議がでたため,1251年(建長3)その処分状を破棄し,後深草天皇に譲与することを定めた。…

※「鷹司院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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