ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鷹司院」の意味・わかりやすい解説
鷹司院
たかつかさいん
[没]建治1(1275).2.11. 京都
後堀河天皇の皇后長子。父は関白太政大臣藤原家実,母は修理大夫藤原季信の娘。嘉禄2 (1226) 年入内して女御 (にょうご) となり,皇后宣下,中宮と称せられた。寛嘉1 (29) 年院号宣下をこうむって鷹司院と称した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…後鳥羽上皇はその子雅成親王を女院の猶子とし,女院領の伝領をねらったが,承久の乱により女院領はいったん幕府に没収され,22年(貞応1)に返付された。その後,女院は近衛家実の女長子を養子とし,26年(嘉禄2)入内させて後堀河天皇の中宮にするなど,家実と結んで政局に介入,九条道家と競ったが敗退し,長子は29年(寛喜1)院号宣下,鷹司院と称した。 女院はすでに16年(建保4)信頼する仁和寺菩提院の行遍を通じ,別当三位家領阿波国宍咋荘を高野山蓮華乗院に寄進していたが,政争に敗退後,行遍への信任を強め,38年(暦仁1)庁分大和国平野殿荘,翌39年(延応1)別当三位家領伊予国弓削島荘を東寺に,同じく周防国秋穂二嶋荘を菩提院に寄進,東寺に供僧設置をはかる長者行遍を援助した。…
…雅成親王が承久の乱の謀議に参画したため,長講堂領は鎌倉幕府によって没収されたが,まもなく本主の宣陽門院に返還された。宣陽門院は,猪隈関白家実の女藤原長子を養子にし,後堀河天皇に入れて中宮鷹司院とし,この鷹司院に長講堂とその所領を譲与しようとした。しかし後嵯峨上皇から異議がでたため,1251年(建長3)その処分状を破棄し,後深草天皇に譲与することを定めた。…
※「鷹司院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新