デジタル大辞泉
「仲恭天皇」の意味・読み・例文・類語
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ちゅうきょう‐てんのう‥テンワウ【仲恭天皇】
- 第八五代天皇。順徳天皇第四皇子。名は懐成(かねなり)。母は藤原立子。承久三年(一二二一)四月践祚後、まもなく起こった承久の乱で京方が敗れたため、在位七十余日で、鎌倉幕府によって廃された。世に九条廃帝と称せられ、また即位礼・大嘗会を行なわなかったため、半帝とも称された。その諡号は明治三年(一八七〇)の追諡。建保六~文暦元年(一二一八‐三四)
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仲恭天皇
ちゅうきょうてんのう
[生]建保6(1218).10.10. 京都
[没]天福2(1234).5.20. 京都
第 85代の天皇 (在位 1221.4.20.~21.7.9.) 。名は懐成 (かねなり) 。順徳天皇の第4皇子。母は藤原良経の娘中宮東一条院立子。生誕の年に立太子。承久3 (21) 年4歳で受禅。承久の乱の結果,北条氏の強要でわずか在位 70日余で後堀河天皇に譲位。このため,半帝,後廃帝,九条廃帝などと呼ばれ,明治3 (1870) 年仲恭天皇の諡号が贈られた。陵墓は京都市伏見区深草本寺山町の九条陵。
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仲恭天皇
ちゅうきょうてんのう
(1218―1234)
第85代の天皇(在位1221.4~7)。名は懐成(かねなり)。順徳(じゅんとく)天皇の第一皇子。母は中宮(ちゅうぐう)立子(りっし)(東一条院(ひがしいちじょういん)。九条良経(くじょうよしつね)の女(むすめ))。建保(けんぽう)6年10月10日誕生。践祚(せんそ)直後に承久(じょうきゅう)の乱が起こり、即位礼も大嘗会(だいじょうえ)も行わず、在位80日足らずで幕府のために廃された。このため半帝、九条廃帝などとよばれたが、1870年(明治3)に仲恭天皇と追諡(ついし)された。天福(てんぷく)2年5月20日没。御陵は京都市東山区の九条陵。
[山本博也]
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仲恭天皇 ちゅうきょうてんのう
1218-1234 鎌倉時代,第85代天皇。在位1221。
建保(けんぽ)6年10月10日生まれ。順徳天皇の第4皇子。母は藤原立子(りっし)(東一条院)。父の譲位により,4歳で践祚(せんそ)。しかし父が討幕をくわだて敗れた(承久(じょうきゅう)の乱)ため,正式な即位式もできないまま在位70日余で幕府により廃された。天福2年5月20日死去。17歳。明治3年仲恭天皇の諡号(しごう)がおくられ,歴代にくわえられた。墓所は九条陵(くじょうのみささぎ)(京都市伏見区)。諱(いみな)は懐成(かねなり)。別名に半帝,後廃帝,九条廃帝。
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仲恭天皇
ちゅうきょうてんのう
1218.10.10~34.5.20
在位1221.4.20~7.9
順徳天皇の皇子。名は懐成(かねなり)。母は九条良経の女東一条院立子。1221年(承久3)父順徳天皇が後鳥羽上皇の倒幕計画に協力するため譲位し,4歳で践祚(せんそ)。同年の承久の乱後,即位礼や大嘗祭も行われないまま鎌倉幕府によって退位させられたので,半帝・九条廃帝と称された。退位後は伯父道家,母立子のもとですごした。1870年(明治3)仲恭天皇と追諡された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
仲恭天皇
没年:文暦1.5.20(1234.6.18)
生年:建保6.10.10(1218.10.30)
鎌倉時代の天皇。順徳天皇と九条立子(良経の娘)の子。諱は懐成。承久3(1221)年4月に践祚したが,直後に勃発した承久の乱により,3カ月で廃位にされた。「(九条)廃帝」と称される。
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仲恭天皇
ちゅうきょうてんのう
1218〜34
鎌倉前期の天皇(在位1221)
順徳天皇の皇子。順徳天皇のあとを継いだが,承久の乱後幕府に強要されてわずか70余日で後堀河天皇に譲位した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
仲恭天皇 (ちゅうきょうてんのう)
生年月日:1218年10月10日
鎌倉時代前期の第85代の天皇
1234年没
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