泉涌寺(読み)せんにゅうじ

精選版 日本国語大辞典 「泉涌寺」の意味・読み・例文・類語

せんにゅう‐じ センユウ‥【泉涌寺】

(「せんゆうじ」の連声。「せんにゅじ」とも) 京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の大本山。山号は月輪(がちりん)山または泉山(もと東山(とうぜん))。天長年間(八二四‐八三四)空海の創建で、法輪寺と称した。斉衡三年(八五六藤原緒嗣が神修に帰依して建立、天台宗に改め、仙遊寺と改称。建保六年(一二一八)俊芿(しゅんじょう)が堂宇を再建して台・密・禅・律四宗兼学の道場とし、現名に改めた。四条天皇以後、歴代皇室の菩提寺として崇敬をうけた。所蔵する俊芿筆の附法状・泉涌寺勧縁疏は国宝。

せんゆう‐じ【泉涌寺】

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デジタル大辞泉 「泉涌寺」の意味・読み・例文・類語

せんにゅう‐じ〔センユウ‐〕【泉涌寺】

京都市東山区にある真言宗泉涌寺派の総本山。山号は泉山。天長年間(824~834)に空海が開創の法輪寺のち仙遊寺を、建保6年(1218)俊芿しゅんじょうが再興して改称し、天台四宗兼学の道場とした。四条天皇の陵が営まれて以後、皇室の菩提寺ぼだいじとして崇敬された。御寺みてら

せんゆう‐じ【泉涌寺】

せんにゅうじ(泉涌寺)

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日本歴史地名大系 「泉涌寺」の解説

泉涌寺
せんにゆうじ

[現在地名]東山区泉涌寺山内町

東山連峰月輪つきのわ山山麓にあたり、大門・本堂仏殿・舎利殿がともに西面する。その奥に御座所・小方丈・霊明殿・庫裏などが所在する。泉山と号し、真言宗泉涌寺派本山。古くより皇室の菩提所にあたる香華院として、御寺みてらと尊称された。本尊は仏殿の釈迦如来。観音堂の観音菩薩楊貴妃観音とよばれ、二世湛海が入宋の際入手したと伝える。洛陽三十三ヵ所観音二〇番札所。当寺は律宗を宣揚しながらも他宗兼学の道場とされ、台・律二宗兼学(元亨釈書)とも禅・律二宗(薩戒記)とも称されたが、のちには台・密・禅・律(山城名勝志)、あるいは禅・律・真言・浄土(和漢三才図会)兼学の道場と称された。明治五年(一八七二)真言宗古義派専修となる。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔開創〕

拾芥抄」には「仙遊寺観音寺南、今泉涌寺」とあるが、創建については不明な点が多い。寺伝は天長年間(八二四―八三四)空海が草庵を結んで法輪ほうりん寺と号したのが始まりという。「山城名勝志(正徳元年刊)は「或云、当山左大臣緒嗣山本左大臣神修上人建立号法輪寺其後行天台仙遊寺」と、左大臣藤原緒嗣が神修上人に帰依して建立、法輪寺と号し、その後天台に属して仙遊寺と改称したとする。「元亨釈書」は「此寺斉衡三年左僕射緒嗣所ナリ」として、法輪寺の開創を斉衡三年(八五六)とする。

〔俊の入寺〕

その後荒廃していたが建保六年(一二一八)宇都宮信房入道道賢から僧俊に仙遊寺が寄進され、泉涌寺と改められた(元亨釈書)。俊は正治元年(一一九九)渡宋、律をきわめ、また天台を学んで建暦三年(一二一三)帰国、わが国に北京律を伝えた。俊は宋風の規則を重んじて建保三(六カ)年清衆規式(泉涌寺文書)を定めたが、これは鎌倉後期禅宗寺院で制定されるようになる寺中清規の先駆をなすものといえる。

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改訂新版 世界大百科事典 「泉涌寺」の意味・わかりやすい解説

泉涌寺 (せんにゅうじ)

京都市東山区にあり,東山連峰の月輪山(つきのわさん)の山麓の閑寂,高雅な環境にめぐまれた天皇家の菩提寺。泉山(せんざん),御寺(みてら)とも称し,中・近世には律を中心として台・密・禅の四宗兼学の寺院。明治以後,真言宗泉涌寺派の本山となった。当寺ははじめ法輪寺,ついで仙遊寺と称したが,鎌倉時代前期の1218年(建保6),豊前国の武士中原信房が帰依していた俊芿(しゆんじよう)にこの寺を寄進,俊芿は寺号を泉涌寺と改め,律院として伽藍を整備した。有名な俊芿自筆の〈泉涌寺勧縁疏(かんえんしよ)〉(国宝)は,この翌年に造営資金を勧進して書かれたものである。2世湛海は入宋し,楊貴妃観音など多くの仏像,泰山白蓮寺に伝わる仏舎利を将来した。この仏舎利は天下無双の霊宝として謡曲《舎利(しやり)》にも霊験がうたわれ,当寺は舎利信仰の中心となって,そののち貴賤の信仰をあつめた。また楊貴妃観音はいまも境内の観音堂に安置され,その端正な容姿は海外伝来の仏像の白眉として名高い。当寺が皇室の菩提寺となった契機は,1242年(仁治3)みずからを俊芿の生れかわりであるとした四条天皇の葬礼が当寺で執行され,御陵が境内に営まれてからである。室町時代前期の後光厳天皇から幕末の孝明天皇に至るまで,歴代天皇の葬儀は当寺で行われることとなり,この間,江戸時代初期の後陽成天皇まで歴代天皇の荼毘所(だびしよ)ともなった。そして後水尾天皇から天皇家の葬礼が土葬にかわると,それ以後の天皇と女院の遺骸は,四条天皇陵のかたわらに埋葬された。明治以後,宮内省の管轄に移された旧境内の月輪陵や後月輪陵がこれである。こうして,近世には天皇家唯一の菩提寺として幕府の保護も厚く,寺領は1300石余,1668年(寛文8)には徳川家綱によって堂塔伽藍が修理再造され,寺運は安定した。現存の仏殿(重要文化財)などはこのときの造営にかかる。明治維新の神仏分離と神道国教政策によって,天皇陵は当寺から切りはなされ,天皇家の保護も薄くなったが,いまも寺内の霊明殿(れいめいでん)には四条天皇以下の歴代の天皇や女院の尊像や位牌が,また海会堂(かいえどう)には天皇や女院の念持仏がまつられている。なお,山内には,後光厳・後円融・後小松三帝が帰依した雲竜院,西国三十三所観音霊場第15番札所として名高い今熊野観音寺をはじめ,戒光寺,善能(ぜんのう)寺,新善光寺悲田院,即成(そくじよう)院など多くの塔頭(たつちゆう)がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「泉涌寺」の意味・わかりやすい解説

泉涌寺
せんにゅうじ

京都市東山区泉涌寺山内町にある真言(しんごん)宗泉涌寺派の総本山。月輪山(がちりんさん)または東山(とうぜん)と号し、御寺(みてら)、泉山(せんざん)とよばれる。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)、弥勒菩薩(みろくぼさつ)、阿弥陀(あみだ)如来。天長(てんちょう)年間(824~834)に空海が法輪寺を建立し、のちに仙遊寺(せんゆうじ)と改称されたのを、1218年(建保6)に月輪大師俊芿(しゅんじょう)が再興して開山となる。そのとき境内から清泉が湧(わ)き出したのに由来して現寺号に改称された。以来、皇室の崇敬厚く、皇室の菩提(ぼだい)所として、また諸宗兼学の道場として栄える。伽藍(がらん)は応仁(おうにん)の乱で焼失したが、徳川4代将軍が寛文(かんぶん)年間(1661~73)に再建し、さらに1884年(明治17)、御座所、小方丈など京都御所の一部を移築し、現在に至っている。1884年に再建された霊明殿には、四条(しじょう)天皇をはじめ歴代天皇、皇后、親王の尊牌(そんぱい)(位牌(いはい))が安置される。御山陵(さんりょう)には87代四条天皇をはじめ、諸天皇、中宮、皇太后の御陵がある。仏殿、大門、開山塔、無縫(むほう)塔は国の重要文化財。俊芿筆の付法状、泉涌寺勧縁疏(かんえんしょ)(いずれも国宝)、中御門(なかみかど)天皇宸翰(しんかん)、道宣・元照・俊芿の画像(ともに国の重要文化財)など寺宝は多い。観音(かんのん)堂に安置されている聖(しょう)観音(楊貴妃(ようきひ)観音)は美貌(びぼう)で名高く、縁結び、諸願成就(じょうじゅ)の観音として信仰されている。山内に来迎(らいごう)院など九つの塔頭(たっちゅう)があり、1月15日の泉山(せんざん)七福神巡りには人々でにぎわう。

[眞柴弘宗]

『『古寺巡礼 京都28 泉涌寺』(1978・淡交社)』『赤松俊秀監、総本山御寺泉涌寺編『泉涌寺史』全2巻(1984・法蔵館)』

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百科事典マイペディア 「泉涌寺」の意味・わかりやすい解説

泉涌寺【せんにゅうじ】

京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の大本山。御寺とも。本尊釈迦如来。藤原緒嗣の創建と伝え,天台宗で仙遊寺と号したが,1218年俊【じょう】(しゅんじょう)が再興し,泉涌寺と改称,台密禅律四学の兼学道場とした。四条天皇以降御陵が多く,天皇家の菩提所とされた。1872年兼学を廃し,真言宗に属した。
→関連項目鎌倉仏教舎利俊【じょう】東山[区]横田荘臨済宗

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「泉涌寺」の意味・わかりやすい解説

泉涌寺
せんにゅうじ

京都市南東部,東山区にある真言宗泉涌寺派の本山。空海の創建と伝えられ,初めは法輪寺と呼ばれ,その後天台宗に改宗し仙遊寺と呼ばれた。建保6(1218)年俊芿が宋から帰朝して再興し,泉涌寺と改め宋風の伽藍とした。勅願寺。寺領内に四条天皇(在位 1232~42)以後,歴代天皇の陵があって,皇室との縁が深い。俊芿の筆による『附法状』『泉涌寺勧縁疏』はいずれも国宝。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「泉涌寺」の解説

泉涌寺
せんにゅうじ

京都市東山区にある真言宗の寺。1242年(仁治3)四条天皇が寺内に葬られてから皇室の菩提寺とされ,御寺(みてら)とよばれる。開創は未詳。はじめ法輪寺,ついで仙遊寺と称した。鎌倉時代に俊芿(しゅんじょう)が入寺して寺号を泉涌寺と改め,天台・律など諸宗兼学の道場とした。以後御願寺に加えられ,北京(ほっきょう)律の拠点として繁栄。応仁・文明の乱で衰えるがのち復興。仏殿・開山堂は重文,俊芿筆「泉涌寺勧縁疏(かんえんそ)」「附法状」は国宝。

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旺文社日本史事典 三訂版 「泉涌寺」の解説

泉涌寺
せんにゅうじ

京都市東山区今熊野町にある真言宗泉涌寺派の大本山
開山は空海と伝え,初め法輪寺,のち仙遊寺と改名。鎌倉初期俊芿 (しゆんじよう) が再興。伽藍 (がらん) 竣工のとき堂の傍から清泉が涌く嘉祥があり,泉涌寺と称した。四条天皇以降の御陵が多く(泉涌寺陵),皇室の崇敬は特に厚かった。

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世界大百科事典(旧版)内の泉涌寺の言及

【俊芿】より

…鎌倉前期に戒律復興を実践した学僧。京都泉涌(せんにゆう)寺の開山。号は我禅,字(あざな)は不可棄,のち月輪大師(がちりんだいし)と勅諡(ちよくし)された。…

【大喪】より

…葬儀が仏式によった確実な初例は聖武天皇の葬儀であるが,以後孝明天皇の葬儀に至るまで仏式が用いられた。この間,平安・鎌倉時代を通じて,葬儀は所縁のある寺院において行われたが,南北両朝分裂後の北朝の後光厳天皇以後,孝明天皇に至るまで京都泉涌(せんにゆう)寺で行われた。明治維新後,孝明天皇の三年祭に当たり,神式で行うとして以来,宮中における葬儀は神式となり,1897年の英照皇太后,1912年の明治天皇の葬儀も神式で行われ,同時に葬儀の次第もほぼ定着し,やがて皇室喪儀令が制定され,大正天皇の葬儀は同令によって行われた。…

※「泉涌寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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